632話 東海道新幹線開業のころと父

 
 本の話を何本も書いて、これから公開していく予定だったのだが、新聞もテレビも「新幹線開業・東京オリンピックから50年」という話題であふれていて、「ああ、そうだったなあ」と思い出すことがあって、その話題をはさむことにした。
 そう、今から50年前の今頃だった。単身赴任している父が帰ってきて、「新幹線に乗ったぞ」という話をした。東海道新幹線の開業は、1964年10月1日なのだが、父が乗ったのはそれより前だ。その数年前から、父は愛知県のある区間の新幹線工事をやっていて、工事関係者の試乗会ということで、開業前に乗ったということらしい。
 数か月ぶりに帰宅した父の、誇らしそうな話しぶりを耳にして、小学校6年生のバカ息子は、「ふーん」と言っただけで、まったく関心を示さなかった。「すごいなあ。ねえねえ、それで、新幹線って、やっぱり早いの? 揺れた?」などと質問攻めにすれば、父はどんなに喜んだろうかと今なら思うのだが、私は機械には興味がなく、父と話すのも苦手だった。父に欠点があったわけではない。欠点というなら、むしろ私にあったのだろうが、小学校高学年になってから、父とはほとんど話をしなくなっていた。
 土木・建設工事の技術者であった父は、そのサラリーマン人生のほとんどを単身赴任者として過ごした。幼少期は工事現場のそばに住んでいたが、朝起きたときにはすでに出勤していて、私が寝るときにはまだ帰宅していなかった。幼稚園に入るころには、それまでの工事は完了し、別の現場に移動となったのだが、子供たちが学齢期に入っていたために、単身赴任することになった。それ以後、ふた月に1回か2回、自宅で数日過ごす生活になった。山奥のダム工事の場合、現場から駅のある町まで出てくるだけで大変で、その駅からの交通も、今と違ってえらく時間がかかったから、「自宅に帰る」というのは、大変な事だったに違いない。だから、父のいない生活が「普通の生活」であって、父が家にいると客がいるようで落ち着かなかった。父はあまり趣味のある人ではなかったので、子供とキャッチボールをするとか、釣りに行くということもなかった。いっしょにどこかに行くということもあまりなかった。子供とのつきあいに慣れる前に、子供たちは思春期を迎え、父とはより広い距離をとるようになった。
 息子をはじめ家族全員が土木・建設にまったく関心を示さないものだから、父は自宅で仕事の話をすることはなかった。その唯一の例外が、新幹線試乗会の話だった。かつてのバカ小学生も歳を重ねると、あのときの父のなさけなさ、はがゆさ、悲しさが充分に想像できる。妻や娘はともかく、男の子なら鉄道や工事に興味を持つだろうという父の期待をすでに裏切っていて、それ以後も興味を持つことはなかった。
 父から新幹線の話を聞いてから4年後に、私は初めて新幹線に乗った。そのころ父は大阪の現場で仕事をしていて、そこに子供たちを呼んだのだった。その旅行は父の発案か母の発案か、今となってはまったくわからないのだが、前川家の子供たちだけで旅した最初にして今のところ最後の旅になっている。現場は大阪だが、京都駅から行った方が近いらしく、京都駅の新幹線出口に父が迎えに来ていて、車で現場に向かったのだが、そこがどこだったのかまったく記憶にない。どういう工事現場だったのかも覚えていない。山間部ではなく、郊外の幹線道路の工事だったかもしれない。夏休みだったので、とにかく暑かったことだけは覚えている。その旅で、父と何を話したのか覚えていない。新幹線の乗り心地などという話はしなかったと思う。
 私とは縁のない土地でありながら、父が新幹線工事のために住んでいた地だから、愛知県の蒲郡市を、「がまごおりし」と読めるようになった。それが、私の唯一の新幹線工事体験だろう。
 あれから、50年。