633話 ヒッピー始末記を読みたい

 若者の旅の歴史を追うには、ドイツの遍歴職人やユースホステルやワンダーホーゲルの運動、イギリスのグランドツアーやボーイスカウト活動などいくつもの要素があるのだが、第2次大戦後に限れば、若者が異文化衝突の旅をするようになるきっかけには、アメリカで生まれたヒッピーの存在が大きい。
 ヒッピーはその前の世代のビートと同様に、「ここではないどこか」「こことは違う文化」への憧れが強く、禅やインド(宗教や音楽や美術など)に近づいて行ったことが、今日のバックパッカーの基礎になる。ヒッピーに関する情報は多くあり、ヒッピーは何を考え、どういう行動をしていたのかといったことは、ウィキペディアでも多少はわかるし、もっと知りたければアメリカ現代文化史、とくにカウンターカルチャーの研究書などいくらでも資料はあるから、そういう本を片っ端から読めばいい。しかし、重要な資料がないのだ。私が知りたいのは、「ヒッピーとはどういうものか」ではなく、「ヒッピーがどのように生まれたのか」ということなのだが、そのいきさつを詳しく書いている本を読んだことがない。ここ何年も、アメリカ現代文化の本、とりわけヒッピー関連の本を取り寄せて読んでいるのだが、始末記の「始」の部分がよくわからない。700ページ以上もある2段組み弁当箱本”The Hippie Dictionary A Cultural Encyclopedia (and Phraseicon) of the 1960s and 1970s ” (John Bassett MaCleary , Ten Speed Press , 2002)まで取り寄せたのだが、ヒッピー誕生の詳しいいきさつはわからなかった。
 ヒッピーというのは宗教ではないから、ある人物が神の啓示を受けて教祖になり、その教義を広めるというものではないことは、もちろんわかっている。誰か、特定の個人が始めたことではないのだが、ヒッピーの思想や服装などがどのように生まれたのか、これがまるでわからないのだ。
 1960年代後半をカリフォルニアで過ごした日本人が書いた『追憶の60年代カリフォルニア――すべてはディランの歌から始まった』(三浦久、平凡社新書、1999)を読んでみると、ヒッピーの外側にいた当時の人々にとって、ヒッピーは「変な服装をした人たちの出現」でしかなかったことがわかる。サンフランシスコのヘイト・アシュベリー地区というのは、Haight とAshburyという2本の道路が交差するあたり一帯のことで、そこに「異様な風体の若者たち」が住み始め、路上にたむろしていた。アメリカ各地からその仲間入りをする若者がやってきて、その異様な光景を見物しに観光客がやってくる。そういうことだったらしい。YouTubeアメリカのドキュメント映像を見ても、「変な服装の若者たちがたむろする地区探訪」というつくりになっている。
 ヒッピーとはもっとも遠いところにいる人という印象の書き手が、ヒッピーについて書いているらしいという情報は昔からつかんでいたのだが、その本は安くもないし、おもしろそうでもないので買わないでいたのだが、いよいよ資料もなくなって、ついに注文してしまった。あの城山三郎が書いた本だ。『ヒッピー発見 アメリカ細密旅行』(毎日新聞社、1967)は、なぜか本文には記載がないのだが、「サンデー毎日」の連載のための取材旅行記をまとめたものらしい。アメリカをひとりでバス旅行した印象記だ。このとき、城山は40歳直前。9年前に、すでに直木賞作家になっている。今回、城山の文章を初めて読んだが、この本に関しては、「可もなく不可もない凡作」だ。当時の40歳の作家と「サンデー毎日」の読者という組み合わせでは、ヒッピーを取り上げるには無理がありすぎた。
作家はハイト通りに向かった。
 「ヒッピーの大群に襲われたサンフランシスコでは、この夏にはヒッピーの数は十万を超すかもしれぬとして(同市の人口は八十万)、市長がその抑制措置をとると二、三日前に発表したところだという。
 ハイトに近づくと、なるほど、いるわ、いるわ。ヒッピーのトレードマークである肩に垂れる蓬髪が、路上にあふれている。金色、亜麻色、栗色、にんじん色・・・・。
 女たちは、膝上二十センチがいるかと思えば、ブーツをはいているもの、はだしもいる、ひげをはやしていたあねご格もあれば、まだもぎたての初々しい子もいる」

 こういう描写は、同時代的には生き生きとしたものであったかもしれないが、今となってはどうということもない。すでに知っていることだ。私は、どういういきさつで、そういう異形な若者が誕生したのかという調査と考察を読みたいのである。
1980年初めの原宿に、「竹の子族」を見物に行く感覚と似ているところはあるが、ヒッピーと竹の子族ではその影響力があまりにも違いすぎた。ヒッピーの文化はヨーロッパやアジアへと伝わっていった。竹の子族の来歴は、ほぼわかっているが、ヒッピーの方はまるでわからない。仕掛け人などいなかったことはわかっているが、もう少しヒントがほしい。
 グレイハウンドバスでニューヨークにやってきた城山は、ニューヨークのヒッピーについてこう書く。
 「ニューヨークでも、ヒッピー族を見かけた。ダウンタウンに近いグリニッチビレッジは、もとは芸術家の町であり、風変りな放浪者たちの住むところとして有名であった。ヒッピーに先立つビートニクや、その先輩たちが、愛し住んだ町である。
 だが、繁栄は、その一画を放っておかなかった。芸術家の町であるところが気に入って、戦後、金持ちたちが住むようになり、間代や家賃が高騰し、放浪者たちでは住めなくなってしまった。もっと安く暮らしよいところで――というので、放浪者や貧乏芸術家たちはサンフランシスコに移ったという」

 そういう話は、以前にも読んだことがある。少しずつわかってきたぞ。1950年代から60年代の若者文化の変化はこうなる。
 1950年代、ビート、ニューヨーク、ジャズ、文学運動
 1960年代、ヒッピー、サンフランシスコ、ロック&フォーク、文化運動、低年齢化
 ニューヨークは、「風変りな放浪者」に対する市当局の締め付けが厳しく、物価が高く、気候も厳しい。サンフランシスコは、同性愛者も含めて「風変りな者たち」に寛容で、気候もいい。サンフランシスコはビクトリア様式の木造住宅が有名で、シェアハウスにすれば若者でも安い家賃で住める。ヒッピーの黎明期を包む霧が少しは晴れたが、まだわからないことだらけだ。さらなる勉強が必要らしい。