「風と共に去りぬ」は、小説を読んでいないし、映画も舞台も見たことがない。「見たい」とはあまり思わない映画だったからだが、映画のいくつものシーンは、テレビのアメリカ映画史といった番組などで見ている。それでも特にどうという印象はなかったのだが、1939年の公開だと知ったときは衝撃だった。
1939年(昭和14年)は、第二次世界大戦が始まった年で、日本でも本格的な戦争へと歩み始めていた時代だ。石油や米の統制が厳しくなった時代に、アメリカでは総天然色の壮大な映画を作っていたことに驚いた。日本での公開は1952年だから、普通に考えれば日本人は1952年以前には見ることのできない映画なのだが、『南方演芸記』を読んでいたので、シンガポールで何人もの日本人が見たことは知っていた。
井伏鱒二は、自分の小説が原作だった映画を、シンガポールで初めて見たという話は書いているが、「風と共に去りぬ」は映画のタイトルをあげているが見たかどうかわからない。
小出は『南方演芸記』のなかで、このアメリカ映画を「反戦映画の素晴らしい成功である」と書いている。
「堂々たる大作の全篇を通じて、演出に演技にキャメラに彼等の最大の努力を支払って、反戦思想の扇動をしてしまったのである。取敢えず実に立派な作品だ。殊にキャメラの動きなど一応驚嘆に値する。それだけにこの映画の成功は、原作の持つ反戦思想を映画の持つ強烈無比な感化力によって更に米国大衆の頭に深くにぢみさせてしまったのである」
徴用から帰国した者が、昭和18年6月に出版した本の文章なので、感じたことを自由に書ける時代ではない。それなのに、この映画を絶賛していて、よくも出版できたものだ。「反戦」という語が今と違って、悪い意味になるのだろうが、それにしても絶賛しているのには違いない。この「風と共に去りぬ」を検閲した者のひとりが小出だというのが興味深い。
小出や井伏と同じときに、同じシンガポールにいて、『徴用中のこと』に名前が出てくる徳川夢声は、「風と共に去りぬ」を見ている。
徳川夢声の『夢声戦争日記』の単行本全5巻が中央公論社から出版されたのが1960年、中公文庫版全7巻が発行されたのが1977年である(これも、1970年代後半の中公文庫だ!)。夢声の日記の昭和18年1月4日の部分に、こうある。「昭南」は、シンガポールにつけた日本名だ。戦時中に現地で書いた日記をもとに、戦後書き直した日記である。
「この日の午後五時から、芙蓉劇場に映画を見に行った、とメモに記してあるが、いかなる作を見たか思い出せない。とにかく、軍宣伝部で管理している米国天然色映画を、私は昭南にいる間に、三本見ている。タイロン・パワー主演『血と砂』と、クラーク・ゲーブル主演「風と共に去りぬ」と、ディズニー作『ファンタジア』の三本である。メモに記されたものから判断すると、この夜見たのは『風と共に去りぬ』であったらしい。
さて、メモは日本へ帰る時、軍の検閲を受けなければいけないので、その際叱られそうな件は記していない。私は『風と共に去りぬ』を見ながら、身体が震えるような気がした。(中略)こんな素晴らしい映画をつくる国と、近代兵器で戦争をしても、到底勝てっこないのではないか」
こういう感想を抱かせる映画は、軍宣伝部は廃棄処分にするべきだった。この映画にしろ「ファンタジア」にしろ、こういう映画を見た日本人は、「アメリカはすごい!!」と驚嘆する。そういうことがわかっている小出など軍宣伝部の態度がおもしろい。
夢声は「風と共に去りぬ」について長い感想を書いているが、夢声自身が要約している部分を引用する。
「『風と共に去りぬ』を見て、私がアメリカに恐れをなしたのは、
A、あれだけの大映画を作る資本力は、おそるべし。
B、これだけの大映画を作る機械力は、おそるべし。
C、映画のモギ戦争ですら、これだけの大群を整然と動かし得る機動力、おそるべし。
D、物語全篇をつらぬく、正義観念と、その正義を実行する勇気(以下略)」
このようなことをメモに書いて軍人に見つかると、没収くらいでは済まないから、本当に書きたいことは、頭の中に書いたのだ。
今、ウィキペデュアを読むと、小津安二郎もシンガポールでこの映画を見ているとわかった。その感想は知らないが、多分否定的ではなかっただろう。