井伏鱒二といえば、少年時代に『ジョン万次郎漂流記』(1938年直木賞受賞作)、『山椒魚』、『黒い雨』の3作を読んでいるだけだが、それ以来40年以上たって、ひょんなことから井伏の本を注文することになった。井伏鱒二(1898〜1993)は、1941年12月、マレー派遣軍陸軍宣伝班員として徴用されて、42年12月までの1年間を現在のタイ、マレーシア、シンガポールで過ごした経歴があると知り、その時代の思い出話をまとめた『徴用中のこと』をさっそく注文したのである。この本は、1977年から80年まで雑誌「海」に連載した文章に大幅に加筆訂正して、『井伏鱒二自選全集』(新潮社)に、断片的に収めたものだ。その後、全集から徴用に関する文章を集めて、講談社から単行本として出版した。私が買ったのはその中公文庫版(2005)の方だ。したがって、これらの文章は戦時中に書いたものではなく、1970年代の回想記である。
昔から東南アジアの本を読んできたので、懐かしい人物の名前が次々と登場する。井伏と一緒に徴用されていた仲間に、作家の里村欣三と、徴用当時は中央公論社の編集者だった堺誠一郎がいる。このふたりの名前は、1970年代から東南アジアに興味を持っていた者、とりわけ金子光晴をはじめとする中公文庫を読んできた者には懐かしい名前だ。1970年代後半の中公文庫は、東南アジアに興味を持ち始めた若者にとって知の宝庫だった。学者が書くつまらない論文ではなく、東南アジアの暑い湿気と雨を感じる文章が詰まっていた。
里村の『河の民 北ボルネオ紀行』(有光社、1943)は、1978年に中公文庫に入っている。この文庫の解説は、堺が書いている。里村は1945年、フィリピンで戦死している。堺誠一郎の『キナバルの民』も1943年に有光社から出版され、1977年に中公文庫版が出た。書棚から取り出して、今この文庫を確認するまで、解説が井伏だったということはすっかり忘れていた。井伏も徴用されていたこともすっかり忘れていて、先週、その事実を初めて知って、『徴用中のこと』を注文したのである。
『徴用中のこと』には、ほかに小栗虫太郎、中島健蔵、藤田嗣治といった名前も出てくる。戦後話題となる、「藤田嗣治と戦争協力」の時代がこれだ。この3人のほかにも、「おおっ」と驚く名前が出てきた。井伏と同じ時代に同じ場所にいた小出英男だ。小出は松竹や新興キネマなどで演出をやっていた人物で、宣伝班員として徴用されていた。小出は映画上映にも関わり、日本軍占領当時、現地にあった映画フィルムを検閲し、アメリカ映画も、日本軍にとって都合が悪いところをカットして公開した。そのなかに、「風と共に去りぬ」、ディズニーの「ファンタジア」、チャップリンの「独裁者」などがあったと、小出の『南方演芸記』(新紀元社、1943)を資料にして井伏が解説している。『南方演芸記』は幻の名著と言っていい。私は古本屋でたまたま見つけたのだが、その当時、国会図書館などいくつかの図書館以外では目にすることができなかった。そののち、2000年に大空社が復刻し、現在は手に入るが14000円もする。
『徴用中のこと』は、戦時中に書いたメモをもとに、1970年代に書いた文章だ。井伏ともなれば、『南方演芸記』を手に入れることなどたやすいことなのだろうと思ったが、「いや、待てよ」、なにかひっかかるものを思い出した。書棚の『南方演芸記』を取り出してページをめくれば、やはり、そうか。
題簽 井伏鱒二
題簽(だいせん)とは和漢書の表紙に書名を書いて張り付けた紙や布のことだが、この場合は「題字」と解釈した方がいいだろう。つまり、表紙の書名を書いたのが井伏というわけで、ふたりはそういう間柄だったというわけだ。
小出英男は徴用解除になって帰国し、甲府に疎開したが、空襲で亡くなった。その話を私に教えてくれたのは、早川書房創業者の早川清氏。若いころ、小出とは演劇仲間だったそうだ。『徴用中のこと』を読んで初めて知ったのだが、井伏も甲府に疎開していたらしいが、小出の死についてはなにも言及していない。もしかして、甲府の空襲で亡くなったことを井伏は知らなかったのかもしれない。
次回は、いよいよ「風と共に去りぬ」の話に入る。