1020話 『ゴーゴー・インド』出版30年記念、あのころの私のインド その11

 船で、またインドへ

 船から香港島九龍半島が見えた時は、「ざまあ、みやがれ!」という気分だった。前年の秋に見た香港が、今また目の前にある。海外旅行は「一生にたった一回の大事業」と思っていて、昨年は日本を出るまでにいろいろ苦労したし、帰国した時は「あー、終わった」としみじみ思っていたというのに、2度目はすぐにやってきた。外国は、手が届くすぐそばにあったのだ。
 香港を出る船の情報は得ていなかったので、香港からバンコクに飛んだ。あとからわかるのだが、これは私の勉強不足で、当時は香港からシンガポール経由でジャカルタまで航行する船がまだあったのだが、私の情報網には入っていなかった。その船に乗れなかったことを、今でも残念に思うことがある。
 このとき、香港で泊まったのが、のちに有名になるチョンギン・マンション(重慶大厦)のなかの安宿だった。船で知り合った旅行者が、この安宿ビルの情報を持っていた。その当時から、薄汚い、胡散臭いビルだったが、その後何度も泊まることになる。
 当時、東南アジアでもっとも有名な安宿(ロンリー・プラネットの表現)は、バンコクのファラムポーン駅の近くにあったタイソングリートだった。特にいい宿というわけではなく、空港から29番のバスで終点のファラムポーン駅(バンコク中央駅)に行けば、そこにある安宿というだけのことだ。その1階で飯を食っていると、日本人旅行者が店に入ってきた。暇つぶしの雑談をした。サンダル履きで、日本のスーパーの袋を下げていて、買い物の帰りかと思ったら、それが彼の全財産で、日本を出る時からこの姿なのだといった。この男とは、もう一度出会う。インドに行く船内だった。
 バンコクからインドネシアを目的地に南下した。東南アジアの旅をしているうちに、マレーシアのペナンから、インドのマドラスに船が出ていることを知って、またインドに行ってみようと思った。料金は飛行機と同じだから、安いわけではない。だから、インドに行きたかったわけではなく、インドに行く船に乗りたかったという方が正確かもしれない。船マニアではまったくないが、船も鉄道同様、ただ乗っているのが好きなのだ。船で異国に行くことができるというだけで、うれしくなるのだ。飛行機には感動しないが、船は心がうきうきする。
 その船の名はチダンバラム号といった。Chidambaramというのは、タミル・ナードゥ州の地名だ。この客船はシンガポール・ペナン・マドラスと航海する。シンガポールとマレーシアに住んでいるインド系住民と本国インドを結んでいる船だ。私が船会社に行ったときは一番安いクラスはすでに売り切れていて、その次のクラスを買うことにした。乗船後のことだが、一番安い船室はどんなところか見たくてでかけた。鉄製2段ベッドが50くらいはありそうな船底の空間で、異臭が立ち込める室(むろ)だった。私が買ったのはその上の階ではあるが、やはり海面下の部屋で、2段ベッドが20台くらいあった。ここなら、奴隷船という感じはなかった。
 1974年の旅は、もう外国旅行に慣れたのか、冷静に、しっかり日記を書いている。チダンバラム号の料金もメモしてある。ペナン・マドラス間が食費・出国税も含めて、206.70リンギットだ。日記によれば、この時、1ドルは300円で、マレーシアでは2.40リンギット。1リンギットは125円だった(ちなみに、現在は26円)。206.70リンギットは2万5800円ほどになる。この料金は、バンコクカルカッタ間の航空運賃とあまり変わらない。世界的に見ても、1970年代は船の時代から飛行機の時代に移り変わる時代だった。日本とヨーロッパの旅行ルートでも、1970年は船からシベリア鉄道に変わる時代だったが、70年代後半には飛行機を使うのが普通になった。
 ここで改めて書いておきたいには、この時期の米ドルの高さだ。日本円の弱さと言ってもいいのだが、1ドルが300円前後だ。輸出産業にとっては夢の時代かもしれないが、貧乏な旅行者にはつらかった。今、1ドルが300円だったら、どれだけの人が外国旅行をするだろうか。
 http://1ドル円.com/1974/
 マドラスに行く船の、2番目に安いベッドは取れそうだ。今すぐ切符を買いたいが、その前にやっておかなければいけないことがある。負けられない戦いが待っている。インドのビザをとらないといけないのだ。