911話 イベリア紀行 2016・秋 第36回


 なぜゲルニカを爆撃したのか


 バスク州ビスカヤ県の県都ビルバオの北東、バスで50分くらいのところにゲルニカがある。ピカソの「ゲルニカ」で有名な街だ。この絵の話はマドリッドに行ってから詳しく書くことになるが、そのゲルニカに行ってみることにした。
 スペインの小さな街ゲルニカが世界的に有名になったのは、ドイツのナチが空爆したからだ。そのいきさつを調べ始めたら、袋小路に入ってしまった。
 1930年代に、スペインの政治的混乱が本格的に始まった。アルフォンソ13 世が退位して共和制になり、右派が勢力を握った。ところが、1936年の選挙では左派が勝ち、政権を握った。その政権をつぶそうと行動を起こしたのが、フランスシコ・フランコらによる軍部のクーデターだ。その結果、左派の共和国側と、軍部による反乱軍の内戦の時代に入った。ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の時代だ。反乱を起こした軍部に強く抵抗した大きな勢力は、バルセロナがあるカタルーニャ地域と北部のバスク地域である。そういういきさつがあったために、反乱軍が制圧し軍事独裁政権が誕生すると、カタルーニャバスクは政権から徹底的な差別を受けることになる。カタルーニャの例は、このアジア雑語林のバルセロナ紀行ですでに書いた。ここまでは、わかりやすいいきさつだ。
 フランコが「スペイン完全掌握」を宣言するのは1939年だが、バスク制圧に大きな力を与えたのが1937年のナチによるゲルニカ空爆だった。この空爆がよくわからない。
 空爆時、反乱軍は、「バスク人が自分で爆薬を仕掛けた」と発表していた。のちに、ドイツ軍が爆撃したことが公表されると、反乱軍は「ドイツ軍が勝手にやったこと」と説明し、自分たちにはまったく責任がないということにした。フランコが死ぬ1975年まで独裁政権時代だったので、軍をはじめ時の政権に不利になる証拠は一切公表されなかった。空爆による死者は、反政権側は1000〜2000人としているが、政権側は「死者はいた」という事実だけ公表したが、死亡者数は明らかにしなかった。のちに発表した死亡者数でも、政権側は100〜200人としている。ゲルニカ爆撃の詳細は、現在に至るも、ほとんど解明されていない。
 スペイン現代史の記述なら、ゲルニカ爆撃の話は必ず出てくるが、「なぜゲルニカを爆撃したのか」という問題の解答は、ちょっと探したくらいではなかなか見つからない。ゲルニカ空爆について書いている人は、「ゲルニカに、なぜ?」という疑問を抱かないのだろうか。爆撃の効果を考えるなら、もっと人口が多いビルバオなどより大きな都市を攻撃したほうがいいはずだ。軍港でもないし、軍需工場地域でもないゲルニカを爆撃する理由が、見つからないのだ。ドイツは空爆の目的を、共和国軍の移動を阻むために、橋や道路を破壊する目的だったとのちに説明しているが、ゲルニカの橋や道路は破壊されていない。この点に関して、「正確に爆撃する技術がなかったからだ住宅地を爆撃した」と説明している人もいるが、橋や道路ではなく「たまたま住宅を爆撃」したという説明は説得力に欠ける。
 『バスクとスペイン内戦』(狩野美智子、彩流社、2003)を読むと、ナチがなぜゲルニカを爆撃したのかという私の疑問は、「その理由はよくわからない」というのがどうやら正解らしい。40 年にわたる独裁政権下で、資料は焼却処分し、関係者は死亡し、もともと詳しい事情を明かす気はなかった上に、時間の経過で事情がよりわからなくなったということらしい。ゲルニカという小さな街に住んでいた多くの人が、空爆で殺されたという事実以外、よくわからないのだ。ピカソの「ゲルニカ」を語る人は多いが、この謎に気がつく人は多くない。
 バスク州ビスカヤ県の街ゲルニカ、現在は近郊のルモ地区と合併し「ゲルニカ・ルモ」が正式名になっているその街に、出かけた。