544話 台湾・餃の国紀行 5

 安全旅社 4


 私が台北に戻った翌日の朝、春ちゃんから電話があった。何とか苦労して、この宿の電話番号を調べたのだろう。今日の昼に、一緒に食事をしよう。11時に宿に迎えに来るという。「場所を指定してくれたら、自分で行くよ」と言ったが、外国人はうまく目的地に着けないだろうと思っているようで、「迎えにいくから」と強く言った。
 電話で言った通りに11時過ぎに、春ちゃんは宿に姿を見せた。
 「こんな場所が台北にあるなんて、知らなかった。驚きねえ。まあ、ものすごい場所だこと」
 まったく同じセリフを、別の台湾人が私に言ったことがある。私の知り合いの友人が、私を夕食に誘いだそうとこの宿にやってきたときだ。生まれも育ちも台北というその人も、「こんな場所があるとは、知らなかった。驚きだ!」といった。
 春ちゃんも、笑いながらいう。
 「タクシーの運転手がね、そんな場所に、女の子がひとりで行くんじゃない。『危ないから、やめなさい』なんて言うのよ。『でも、行く用があるから』と言ったら、しぶしぶ乗せてくれたのよ」
 彼女は、台北の異境に入り込んだことを楽しんでいるようだった。
 いっしょに大通りに出て、彼女はタクシーに手を挙げた。歩くという楽しみはないようだ。ふたりを乗せたタクシーが止まったのは、中山北路の台北國賓大飯店、当時の台北の代表的ホテルであるアンバサダーだった。タクシーを降りて、玄関前に立った。
「すぐ、小姐が来るはずだから・・・」
 アンバサダーホテルを食事の場所に選んだのは、高級ホテルだからではなく、小姐に都合のいい場所にあるかららしい。
間もなく小姐がやってきた。
 「会社がこの近くなんですね」と、日本語ならそうなるのだが、英語で言ったので、「Your Office・・・」という表現になり、小姐は「No, Not my office. My father’s Company」などというぎくしゃくした会話になり、また島でのように英語と中国語を混ぜた会話になった。ホテルでは中国料理を食べた。ロビーの左の店だったという記憶はあるが、どういう料理を食べたのかという記憶は一切ない。「きょうは小姐のおごりよ」と春ちゃんが言うので、遠慮なくごちそうになった。私がこんな高い店を指定したんじゃないし、まあ、いいじゃないのという気持ちだった。
 食事の後小姐は仕事に戻り、春ちゃんは「きょうは一日ヒマだから、行きたいところがあったら案内してあげる」といった。私は、一度は行ってみたいと思っていた驚異の外観をもつホテル、圓山大飯店の名をあげた。歩いていこうという案は拒否され、多分タクシーで行ったのだろう。そういえば、タクシーに乗る前に、彼女はこんなことを言った。
 「さっき、小姐が『父の会社』って言ってたでしょ。その会社って、あのビルの会社よ」と、アンバサダーのすぐ近くの大きなビルを指さした。台湾有数の製薬会社のビルだという。小姐はその社長の娘だったのだ。
 日本時代の台湾神社跡に建てられた宮殿風の巨大ホテル園山大飯店(ユイシャンホテル)のことは、鈴木明の本で知っていた。1978年当時、このホテルが台湾でもっとも高い建造物だった。その次は、台北駅前の台北希爾頓(ヒルトン)大飯店で、この建物は現在の凱撒大飯店(シーザーホテル)である。
 元は神社だったとよくわかる石段を登ると、巨大な赤い建造物が目の前に見えた。園山だ。そのまま歩いていて、隣に人の気配がないので振り向くと、春ちゃんは階段を上ったところで立ち止まっていた。
 「私はいいの。ひとりで見てきて」
なんか、面倒くせえなあと思いつつ歩き、ああそうかと気がついた。男とホテルに入っていく姿を誰かに見られたくなかったのか、そんな女に見られたくなかったのか、いっしょに高級ホテルのロビーに入るには私の姿があまりにみすぼらしかったからなのか(あのころは、ビーチサンダルで旅をしていた。もしかすると、ボロTシャツに半ズボン姿だったかもしれない)、どうもすべてが正解のような気がした。1分ほどロビーを見て、園山観光は終わった。
 「次は?」
 「基隆(チーロン、あるいは英語でキールン)に行こうか」
 どうやって基隆に行ったのか、記憶がない。基隆に着いたころは、黒い雲が重くのしかかり、我々が波止場に着くと同時に、一天にわかにかき曇り、すさまじい雨となり、走って雨宿りをする場所を探した。雨に降られるために基隆に来たようなものだった。のちに、基隆の異名が「雨港」だと知った。雨が多いことで知られる街だという。
 雨宿りの次の記憶は、台北市内を走るバスの中だ。彼女は実家がある信義路か仁愛路あたりですでに降りた。私のほかに客が3人いた。台北はすっかり夜になっていて、時折激しい雨が降ってきた。今、超高層ビル台北101が建っている信義路付近は、あのころは暗い道だった。国父記念館以外大きな建物はなかった。市役所はまだここにはなかった。当時の市役所は、我が安宿からそれほど遠くない場所にあった。現在の、台北当代芸術館が元の市役所だ。
 道路の両側に商店などなく、林の向こうに当時姿を見せ始めた中層マンションの明かりがポツリポツリと見えていた。そういうマンションの1棟か2棟は、春ちゃんの親の所有だ。色とりどりの看板が見える繁華街まで、まだちょっと距離がある。
 また強い雨だ。私の心は強く突き動かされていた。それ以前もそれ以後も、雨と夜とバスの3種が組み合わされると、なぜか心が平穏ではいられなくなる。それは寂しさであり、むなしさであり、不安であり、哀しさであり、なんだかよくわからないすべての感情がひとかたまりとなって、突然心を激しく突き動かす。
 のちに、サイモン&ガーファンクルの「アメリカ」(1968)の歌詞を読んでいて、  「そう、これなんだ」と共感した。歌のなかでは青年が恋人とグレイハウンドバスでニューヨークに向かっている。夜行バスに乗っている青年の感情。
 I’m empty and aching and I don’t know why.(なぜだがわからないけど、むなしくて、心がうずくんだ)