545話 台湾・餃の国紀行 6

 安全旅社 5

 基隆に行った翌日の午後、安全旅社のベランダに椅子を持ち出して、陳さんとおしゃべりをしていると、遠くにある大きなビルに、知っている会社の名が書いてあることに気がついた。
 「陳さん、きのうね、あの会社の社長の娘と昼飯を食べたんですよ。アンバサダーで」
 中山北路の方向に見えるビルを指さした。
 「あの会社の社長って、〇さんていう人だよ」
 「え、そうです。その人の娘です」
 陳さんの心を読めば、「あいた口がふさがらない」、「ホラ話も、休み休み言いなさい」、「あんた、自分がいまどういう姿で、どういう場所で暮らしているのかわかっているのか」、「だれがそんな話、信じるか?」というところだろう。二の句が継げない状態らしく、陳さんはそれ以上何もいわなかった。
 この時の会話ははっきり覚えているのだが、考えてみるとすごいのは、重慶北路の安宿の、2階ベランダ部分から中山北路二段のビルがよく見えて、会社の看板も見えたという事実だ。台北駅の南側からだと、ビルがじゃまになるだろうが、駅の裏側だと、中山北路のビルまで、視界をさえぎるような高い建物がなかったということだ。安全旅社の周りの建物はすでに壊されているので、視界が広かった。このことに今気がついて、やはり35年前だなあと実感したのである。年寄りが、戦後間もなくは、「焼跡の東京から富士山がよく見えた」とか、「銀座から新宿まで視界を遮るものはなかった」という思い出話にも似て、「ああ、昔々の話なんだなあ」とつくづく思うのである。なにしろ、園山大飯店(87m)が台湾でもっとも高い建築物だった時代なのだから。
 翌79年、ビルマからの帰り道、台湾に寄った。足はやはり安全旅社の方に向かったが、かつてその旅社があったあたりは工事用のフェンスが建てられ、ビルのイラストが書いてあった。安全旅社も取り壊されて、あのあたり一面が更地になり、建設用地に変わったのだろう。周囲の状況から考えて、こうなるのはわかっていたが、時代の終わりを感じていた。春ちゃんシンガポールに住んでいるので、連絡はしなかった。
 今年もまた、台北駅付近をよく歩いた。線路が地下にもぐってしまった駅は、駅としての魅力がない。片倉佳史氏の文章を読んでいたら、89年まで駅の裏側に通称「裏駅」と呼ばれた駅舎があったという記述で(「交流」2011年5月号)、思い出した。その姿をはっきりとは思い出せないが、使った記憶はある。站が駅のことだとか、月台がプラットホームだとかいった鉄道用語は、台北駅散歩をしていて覚えた。ここまで書いて、台湾で買ってきた『時代光影』(台北市文献委員会発行)を見ると、1988年撮影の「台北後駅」の写真が載っていた。駅裏になじみのある私には、台北駅とはこの駅舎だった。
 線路が地下に潜って、中華商場がなくなった。線路に沿って中華路に長く延びていた商店街で、2階部分にも軒があって、安全旅社から西門町方面に行く時の通り道だった。中華商場で初めて鍋貼(焼き餃子)を食べた。焼きビーフンも食べた。台北市民にとっても、中華商場が消えたことは大きな話題だったらしい。そのニュースを私は、アジア映画研究者の松岡環さんから聞いた。松岡さんにとっては、中華商場は映画資料の宝庫だったらしい。
 日本人観光客には、中華商場よりもずっと知られていたのが園環公園の夜市だ、重慶北路と南京西路が交差する場所にあるロータリーに出来た屋台街だ。我が安宿のすぐ近くだったので、しばしば足を伸ばした。街を散歩していて、「園環」という表示を見て、ロータリーであることを確認し、かつての屋台街は本当にここだったのか自信がなく、資料に当たって確認できた。2005年に屋台街はなくなり、今は円形のレストランになっている。屋台街はすぐ北の寧夏路だけになった。
 今、台北駅付近を歩いても、記憶にある建物は北門しかない。1983年に発行された『宝島スーパーガイド・アジア 台湾』(JICC出版局)の台北地図を見ていて、駅前に希爾頓(ヒルトンホテル)があったことを思い出し、79年にはその近くを南に下がり、白宮旅社(ホワイトハウス)に行った記憶が蘇ってきたが、そこに泊まったかどうかという記憶はない。
 安全旅社があったあたりがどこなのか、まったくわからない。跡地に巨大なショッピングセンターかオフィスビルが立ち並び、まったく別の街になっているだろうという私の予想はまるではずれ、あの辺り一帯の歴史が止まったような古ぼけた地域のままだった。低層家屋を取り壊して、中低層の建物を建てたようだ。
 中山北路のアンバサダーあたりに行ってみた。ホテルはそのままの姿で残っていた。外観の改装はやっていないようだった。帰国して、『誰も書かなかった台湾』(鈴木明、サンケイ新聞社出版局、1974)のページをまた開いてみると、中山北路を撮った口絵の右端にわずかに写っているのが、アンバサダーホテルだとわかる。40年たっても、外観が変わらないのだ。しかし、小姐の父親が社長をつとめる会社の本社ビルはもはやなく、あのビルがどこにあったのかも、今はもうわからない。それどころか、製薬会社の名前も思い出せず、まだ営業しているのか、倒産したのか、合併したのかも、まったくわからない。だから、小姐のその後もわからない。
 春ちゃんはあれから数年後、ベルギー人と結婚して、ベルギーに住むことになったという便りが来た。