543話 台湾・餃の国紀行 4

 安全旅社 3


 78年の旅は、台北から西海岸を少しずつ南下し、東海岸に回り、蘭嶼島(ランユータオ)にも行った。台東の街を散歩していたら、どこかの島に行く船会社の事務所を見つけて、切符を買った。名前も知らなかった島への船の旅もいいなと思った。船はまだバスが走らない早朝の出港なので、船会社の人がその日早起きをして、私を港までオートバイで送ってくれた。台東の港で出会った島民と話していたら、「宿が決まっていないなら、ウチに泊まっていればいいよ」と言ってくれたので、島では居候生活をすることにした。いつも偶然と親切で、旅を続けていた。
 島に着いた日の夕方、海岸で海と舟を眺めていたら、「今日の午後、北の方の道を歩いてたでしょ」と英語で話しかえられた。私と同年輩の台湾人の女性ふたりが背後にいた。
 「歩いて回れる程度の島だと思って歩き始めたんだけど、歩くなんてとんでもなかったから、引き返したんだ」
 そういえば、私が海岸沿いの道を歩いていたら、観光客を乗せたミニバスが走り去って行ったのを思い出した。
 ガイドブックを持っていないから、島の大きさを歩いて確かめようと思ったのだが、バイクでも1周するのに数時間かかると聞いて、徒歩旅行を断念したのだった。
 砂浜に腰をおろして、ふたりと雑談した。達者な英語をしゃべる人は、ずっとシンガポールで働いていると言った。久しぶりの帰郷なので、高校時代からの親友と島に遊びに来たそうだ。台湾で同世代の人とゆっくりしゃべる機会はあまりないので、英語が通じるのをいいことに、台湾の言語事情など、旅する中で感じた疑問をいろいろ聞いた。知りたがりの子供が先生を見つけたのだ。
 台湾の日本語に関しては、彼女の両親は日本時代に教育を受けた人なので、子供に聞かれたくない話題のときは日本語で話していたというような話をしてくれた。彼女は日本語をまったくしゃべれないが、「おばさん」とか「ハンコ」とか、台湾化した日本語は当然よく知っていた。彼女の名前に春という字があるので、母は「春ちゃん」と呼ぶこともあるというので、私も「春ちゃん」と呼ぶことにした。
 もうひとりの台湾人は、英語はあまり得意ではないと言うので、私とは中国語と英語を混ぜて話していた。日本人には筆談という秘密兵器があるので、会話に困ってもなんとか意思を伝えることはできた。彼女は、その姓に英語の「ミス」あるいは「お嬢様」を意味する「小姐」(シャオチー)をつけて「〇小姐」のように呼んでいたのだが、今はもうその姓を思い出せない。だから、ここではただ小姐としておくのだが、実は彼女は既婚者で、夫はアメリカに留学中だという。正確な中国語なら、小姐ではなく太太(タイタイ、奥様)なのだが、本人も小姐がいいというので、小姐と呼ぶことにした。
あたりがすっかり暗くなるまでの小一時間ほど話をした。
 「あす朝の飛行機で台北に戻るから・・・」と、春ちゃん
 「飛行機で! すごい」高いに決まっているから、料金を調べたこともない。
 「仕事があるから、仕方がないのよ。あなたが台北に戻ったら、3人で一緒に食事をしましょうよ。いつごろ戻るの?」
 「1週間後くらいかな」
許される滞在日数を考えれば、そのくらいまでに台北に戻っている必要があった。
 「で、どこに泊まる予定なの? 」
 「どこって、君たちの知らない宿さ。台北駅裏のSafe Hotel」。紙に「安全旅社、重慶北路一段」と書いた。