734話 葬式は、嫌いだ。


 父の葬式のときに、思った。1980年代末のことだ。
 普段なかなか会うことのない親戚や、私が一度も会ったことのない父の戦友たちが葬式に駆けつけていただいたのはありがたいのだが、この場にいたらいちばん喜ぶ人がいないことに気がついた。父が会いたかった人、会えば夜を徹して語り合い、飲み合って過ごしたいに人たちが揃っていながら、父がいないのだ。
 「生きているうちに、お会いできたら、さぞかし喜んだでしょうね」と、親戚のひとりに言うと、「そう言われても、みんな、いろいろ忙しくてさあ、お見舞いに行けなかったんで・・・・」と意外なことを言った。私が、「なぜ見舞いに来なかったのか!」と詰問していると受け取ったようだ。私は非難しているわけではない。ただ、当人が死んでから、会いたい人たちが現れるという現実が悲しいと思っただけだ。遠方に住んでいる人もいるし、みなさんそれぞれに仕事や家庭を抱えているのはわかっているから、「なぜ見舞いに来なかった!」などと批判する気などさらさらない。ただ、残念なのだ。
 葬式の悲しさが、そこにある。人の死が悲しいというのはもちろんだが、「葬式に来たんじゃ、会って話をするなんてことはできないじゃないか」という現実を思う。私は、亡くなった人に感情などないと思っているから、「さぞかし故人も喜んでいるでしょう」などという感想はまったくない。
 葬式というのは、今生きている人のためにやるものだ。どれだけその人を思っているかを表現するための儀式で、遺族やごく親しい友人たちを除けば、周囲から「非礼、非常、世間知らず」となじられないための義理のおつきあいを表す儀式である。
 だから、私は極力、葬式には行かない。式などに参列しなくても、線香をあげなくても、故人を思うことはできるし、折に触れて故人を思い出すことでつながっていれば、それでいいと思う。会いたい人がいない場に行く前に、生きているうちに話をしておけばなおいい。極力、会うようにすればいい。葬式のために仕事を休むなら、そういう無理をして時間を作って、会って話をすればいい。
 交流のある方が亡くなって、葬儀などの連絡をいただくことはあるが、行かない。私は「人目」を気にしないから、遺影に手を合わせなくても、線香をあげなくても、日常の生活の中でその人を想い、場合によっては文章にして記録に残すことが、私なりの「故人を想う」行為なのである。
 ここまで書いて、10日ほどたつ。思いつくままに文章を書き始めて、このあとどう書こうか迷い、しばし文章を中断することはよくある。原稿を手書きしていた頃は、一応の結末まで考えて文章を書きだしたが、デジタル時代になると、メモのように文章を書いておくことが多くなった。葬式の文章を中断し、本田宗一郎の社葬に関するコメントを思い出したり、父の葬式のころを思い出していた。父が死んだとき、バカ息子(この私のことです)は外国をふらふらと旅行中で、いつどこに行くかなど本人もわからないような風来坊の旅をしていたから、家族は私に父の死を知らせるすべはない。母は、「喪主である息子が帰国してから、葬儀の予定をお知らせします」と親戚に連絡したそうだ。バカ息子が帰国してすぐさまやったことは、喪服を買いに行くことだった。喪服はもちろん、ワイシャツさえ持っていない。黒ネクタイと黒靴も買った。世間の多くの男が持っている服を、私は持っていないのだ。
 式の当日の朝になって気がついたのは、黒い靴下も持っていないし、黒いベルトも持っていないことだが、これはごまかしはきく。もっとも困ったのはネクタイの締め方がわからないことで、義兄に「すいません、ネクタイの締め方を・・・」と言って、教えてもらった。その義兄が、きのう、突然亡くなったという知らせを受けた。小さな会社の社長をやっている現役のビジネスマンだった。昨日の朝、いつまでも寝ているので起こしに行った妻(私の姉)が、ベッドの下で倒れている夫を見つけた。すでに亡くなっていた。心臓病などはなかった。原因不明の突然死だった。義兄は、野球とゴルフと車と酒と和食が好きなビジネスマンで、私はその対極にいるような人間なので、「積もる話」など一度もしたことがなかった。人間的には素晴らしい人だったが、互いに語り合える話題を探せなかった。
 そういうわけで、これから通夜に行きます。きのう、夏用の喪服と半袖のワイシャツを買った。相変わらずネクタイの締め方に自信はないから、インターネットの画像で確認した。
 父の葬式の話が、こういう結末のコラムになってしまった。