2057話 続・経年変化 その23

音楽 23 クレージーキャッツ 1

 ある歌手やバンドに人生を託すというような若者がいて、そのまま年を重ねていく人がいる。たとえば、私の世代ではビートルズローリングストーンボブ・ディランであり、吉田拓郎中島みゆき矢沢永吉などの強い影響を受け、レコードやCDマもちろん、印刷物などをできるだけ買い集めるマニアになったり、歌詞を熟読玩味して、人生の指針にして生きていくという人たちで、ジャズファンなら、マイルス命とかコルトレーン命という人もいただろう。

 私には、そういうアイドル(偶像)はいない。好きなミュージシャンはもちろんいるが、全作品をコレクションするという気はなく、ましてやその人に自分の人生を重ね合わせて生きる指針、あるいはカテにする気などないから、音楽が宗教の世界に入り込まない。つまり、歌手を崇拝することがない。好きな歌手や演奏者に出会えば、折に触れてCDを買うくらいだ。サンバ歌手クララ・ヌネスのCDをかなり買ったが、コンプリートする意義は感じない。音楽だけでなく、小説も思想も宗教も、自分自身と重ね合わせて生き方を決定することはない。どうやら私には、マニアとかオタクとか、コレクターとか信者とかいった資質という性癖といったものはないようだ。帰依する絶対的な存在を認めていないのだろう。いままで何度もタイに行き、いろいろ調べて文章にしてきたが、だからといってタイマニアでもタイオタクでもない。タイのことなら何でも好きというタイファンでさえない。

 「将来の夢」とは、世間的には「将来なりたい職業」の意味で、昔なら「プロ野球選手」とか「医者」などいくつもの回答があり、今なら「ユーチューバー」が上位に来るだろう。私は「外国に行く」ことが夢で、職業など考えなかった。高校時代でも、将来の夢はなりたい職業のことではなく、ただ、日本を出たいというだけだった。高校を卒業してからも「将来の夢」は変わらず、旅行資金を稼げれば、仕事なんかどうでもよかった。いや、どーでもよかったわけではなく、サラリーマンはやりたくない、組織の一員にはなりたくないといった希望はあった。やりたくないことはいくらでもあったが、やりたいことは「日本を出る」以外には映画と読書くらいしかなかった。そういう好きなことをするための資金稼ぎに、建設作業員、清掃作業員、コック見習いなどをした。

 その後、成り行きでライターになった。ライターでなくても、役者でも画家でも、ラーメン屋でも、組織に属さず働く人は、明日をも知れぬ仕事をしているわけで、今日ケガや病気をすれば、明日からの仕事はないという不安定な職業だ。安定を求めて公務員になる人もいるが、安定よりも自由やおもしろさを選んだ者は、意識的に「あした」を深く考えないようにしているのではないか。もし、病気したらどうしよう。老後はどうなるなどという不安を頭から削除した人たちだ。20代の自分を考えてみると、明日のことを意識的に考えないようにしていたのではなく、ハナから「将来」を深く考えていなかったのだ。考えていないから、不安もなかった。

 人生を教えてくれる歌手やバンドはないと書いたが、自分の生き方を示してくれた歌があることをのちに知った。だれも師として生きてきてはいないが、30代か40代になって、ああそうだなあと気がついたのはクレージー・キャッツの存在だった。

 その話は次回に、ゆっくり。

 

 

2056話 続・経年変化 その22

音楽 22 日本の歌

 考えてみれば、日本の本流の歌にはほとんど興味がなかった。本流というのは大ヒット曲のジャンルで、1970年代までの歌謡曲は好きなものもあるが、それ以後のアイドルポップやユーロビートも、「ザ・ベストテン」で取り上げられたヒット曲には耳が向かなかった。日本の歌でCDを買ったのは、ちあきなおみだ。もとより完全コレクションをする気はないが、発売した歌のほとんどは買った。たまたまラジオで聞いて、「改めて、ちゃんと聞こう」と思いCDを買ったのがザ・ピーナッツ

 そういえば、沖縄音楽は比較的よく聞いている。りんけんバンドネーネーズのコンサートに行ったことがある。沖縄の歌手では、古謝美佐子が別格にいい。

 日本の歌で、コンサートのもようをテレビでやっていたり、ラジオで流れていると、「いいなあ」と聞く耳を向ける歌手やバンドがあり、CDを買うというところまではいかないが、パソコンで聞いたりする。思いつくままに、順不同に書き出す。

浅川マキ・・・ステージを2度見ている。

憂歌団

RCサクセッション

東京スカパラダイス・オーケストラ・・・バンコクで生演奏を聞いた。

熱帯ジャズ楽団

BEGIN・・・テレビ初登場の「イカ天」から見ている。

THE BLUE HEARTS

サンボマスター

EGO-WRAPPIN'

クレージーケンバンドなどなど。

 こうして歌手やバンドの名を挙げていて気がつくのは、日本語の歌詞をはっきり発音して歌っている人たちだということだ。「歌なんて、ノリだよノリ」とばかりに、英語らしき単語を入れ、日本語を英語風に発音すれば「かっこいいだろ!!!」というバンドではない。そういう判断基準が先にあったのではなく、聞いていて「いいな」というバンドを書き出すと、たまたまそういう共通点があるということに気がついたということだ。

 そしてもうひとつ、音楽に多少詳しい人が上のリストを見れば、ブルースやソウルミュージックやラテンの影響を強く受けていることがわかるだろう。BEGINにしても、アマチュア時代はブルースをやっていて、沖縄音楽などやる気はまったくなかったのだ。RCサクセッションやウルフルズの音楽を聞けば、オーティス・レディング時代のソウルが聞こえてくるし、RCはローリング・ストーンズの影響も強く受けていることがわかる。つまり、私が好きなジャンルの音がする日本の歌なのだ。

 今の、若い世代の歌手だと藤原さくらがいい。初めて彼女の歌を聞いたとき、「ノラ・ジョーンズだな」と思ったのだが、彼女は実際ノラ・ジョーンズに心酔しているとのちに知った。私の勘は当たっていたのだ。毎週interFMの彼女の番組HERE COMES THE MOONを聞いている。今、馬頭琴に興味があって、いつか弾き語りをやりたいそうだ。

 朝倉さやは、声と節回しがすばらしいのだが、「これだ!」という曲がない。残念。

 

 

2055話 続・経年変化 その21

音楽 21最新・流行

 決してへそ曲がりからではなく、昔から最新、流行、世の風潮といったものに興味がなかった。本は、小学生時代から自分が読みたい本を選んでいたから、「世界の名作全集」とか「推薦図書」など気にも留めなかった。学校が選んだ図書館の本よりも、神保町で自分で選んだ本を読みたかった。

 音楽も、ラジオで自分の好みの音楽を選択できるようになって、ヒットランキング番組は聞いていない。「これで、4週連続第1位です!!」なんていうことなど、どーでもいい。今も昔も社交的な性格ではないし、サラリーマンにもならなかったから、他人と話題を合わせる必要がない。仕事の上でも、最新情報を仕入れて、今後の企画に生かすなどという必要もない。

 映画も最新にこだわらなかったのは、貧乏だったからという理由もある。いわゆるロードショウ上映に行くカネがあったら、2本立て3本だけの名画座に何度も通った方がいいと思っていた。映像も音響も迫力のある大パノラマ映画には興味がなかったからかもしれない。

 2044話で書いたように、私が好きなブラックミュージックは「クラシック・ソウル」と呼ばれる1960年代あたりの音楽だ。ジャズも、1950~60年代あたりのものが好きだ。サンバは1970年代にはすでに「過去」の音楽になっていたし、ポルトガルのファドも、いまは観光客相手の音楽になっている。今「古臭い」と言われるジャンルの音楽が、まだ現役だっころから好きで、そのままだ。そのことをもってして、「進歩していない」などとは言えない。文明に進歩はあっても、文化に進歩はないのだ。50年前の機械よりも現在の機械の方が優れているということはあるが、50年前の音楽や著作や絵よりも現在のものの方が優れているなどと誰が言えよう。楽器や録音機材が良くなっても、それで「より優れた音楽になった」ということはないのだ。機械仕掛けで正確なリズムが刻めるようになれば、「いい音楽になった」というわけでもない。少なくとも、私にとってはそうだ。

 1960年代までは、音楽情報は武器だった。英語ができて、米軍放送を聞きとる耳があり、アメリカの友人が毎月レコードを送ってくれるというような人は、日本の音楽業界で飯が食えた。1960年代初めのリバプールの若者は、港に行ってアメリカ帰りの船員からレコードを買った。「最新」が、素晴らしい情報だったのだ。南アフリカでも、やはり船員からレコードを買い集める若者がいて、いつもドル札を手にしていたからダラー・ブランドというニックネームがついた。のちに彼はジャズピアニストとして有名になり、本名のアブドゥーラ・イブラヒム(1934年生まれ)を名乗るようになった。

 ある時代までは、最新情報は有効であり人によっては武器であり、新しい音楽の流れを作り出してきたのだが、私のように音楽業界以外の者にとっては、「最新」などどーでもいい。「○○を聞いてないと恥ずかしい。遅れてると言われる」と思っている若者は、好きな音楽が自分の中で確立されていなくて、仲間外れにされないように他人と合わせているだけではないか。

 ウォークマン以後、音楽を持ち出せるようになって、音楽の好みが個別化していき、ラジオやテレビのヒットランキング番組が消えた。ネットで音楽を聞くようになり、高校生が60年代の流行歌を聞くチャンスが生まれた。

 私はヒットチャート番組と、そこに登場するような音楽にもともと興味がないから、その手の番組がテレビから消えてもどーでもいいのだが、ただ、時代の空気を感じる誰でも知っているヒット曲というものがなくなったのは、ちょっと寂しい。

 

 

2054話 続・経年変化 20

音楽 20音楽映画

 いままで、韓国映画ゴーゴー60」を紹介し、前回「耳に残るは君の歌声」や「永遠のマリア・カラス」を取り上げたら、音楽映画の話をしたくなった。ドラマもドキュメンタリーも、私が「音楽映画」だと思うものをここで取り上げるが、あらかじめ断っておかなければならないことがある。ひとつは、私はミュージカルがあまり好きではないということで、例外として「サウンド・オブ・ミュージック」と「ムーラン・ルージュ」の2作はおもしろかったと言っておきたい。もうひとつのお断りは、歌手やバンドの自伝的感動物語というのは、どうも苦手だ。ストーリーは似たり寄ったりで、役者の歌を聞くくらいなら、オリジナルを聞いたほうがいいと思うからだ。ただ、やはりその例外として「グレン・ミラー物語」と「ベニイ・グッドマン物語」を挙げておきたいのは、この2作でスウィングジャズの入門編を体験したからだ。新しい作品では「ザ・ユナイテッド・ステイツvs.ビリー・ホリデイを挙げておこう。音楽と政治を描いていて、単なる伝記映画ではない。それに加えて、ビリー・ホリデイを演じたアンドラ・デイの歌唱力がすばらしかったからだ。ダイアナ・ロスの「ビリー・ホリディ物語」とは比べ物にならない秀作だ。

 以下、私が「いいな」と感じた音楽映画の名を挙げておく。インターネットで「音楽映画」を検索すると、「映画音楽」の誤記と認識されることが多く、その障害をすり抜けていくと、ネットにあがっている音楽映画リストは配信の広告がほとんどで、商売を離れるポリシーはない。「あーあ」、である。私のリストは当然、商売とは関係ない。それぞれの作品の紹介をするときりがないので、興味があれば、ご自分で調べてください。順位はまったく意識していないが、ただ、圧倒的第1位は決まっている。ブルース・ブラザースだ。テレビ番組表にそのタイトルがあると、ついつい見てしまう。ただ、残念なのは続編がつまらなかったことだ。

 期待外れの音楽映画は、実は多い。「スタア誕生」(A Star Is Born)の1937年版(ジャネット・ケイナー)は見ていないが、1954年版(ジュディ・ガーランド)、1976年版(バーブラ・ストライサンド)、そして2018年版(レディ・ガガ)も、ピンと来なかった。

 「お断り」が長くなりすぎた。さて、行くぞ。今現在、こういう音楽映画が好きだという、とりあえずのリストだ。

ウッドストック・・・観客がやってくるシーンで流れるテーマ曲とサンタナの演奏がいい。

マッドドッグス&イングリッシュメン

サマー・オブ・ソウル・・・これもすばらしい。

シェルブールの雨傘・・・なんか、いいんだよね。

フォー・ザ・ボーイズ…第二次世界大戦からベトナム戦争までの軍の慰問歌手の話。

アメリカン・グラフィティ

グッドモーニング・ベトナム

ジャージーボーイ

パイレーツ・オブ・ロック・・・イギリスではラジオでロックは放送禁止だった。

海の上のピアニスト

戦場のピアニスト

スウィング・ガールズ

ビエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ

レッド・バイオリン

風の丘を越えて 西便制・・・ブルーレイが発売されたのはうれしいが、11000円だ。

ナビィの恋

ラッチョ・ドローム・・・各地のロマ音楽を紹介。2002年

Africa Live: Roll Back Malaria Concert・・・ロックはエイズに注目したが、マラリアは無視した。

AFRICA CALLING - LIVE 8 AT EDEN・・・イギリスで開催されたアフリカ音楽コンサート

迷子の警察音楽隊 2007年のイスラエル映画・・・なんとなく、可笑しい。

ピアノ・ブルース クリント・イーストウッド監督の音楽ドキュメント・・・総監督はスコセッシ。映画館では未公開。

 ああ、あれもこれもと、次々に思い出の映画が浮かんでくる。このリストに入っていない「我が名作」は多い。

 

 

2053話 続・経年変化 その19

音楽 19 クラシック

 なにげなく耳にしている音楽というなら、ジャズやロックや歌謡曲などよりクラシックの方が、その機会は多い。コマーシャルで使ったり、広報番組などの背後でクラシックが流れているからなじみは深い。有名な曲を、俗に「ポピュラー・クラシック」などと言うが、例えば、こういう曲だ。

 この20年くらいでもっともよく耳にするのは、パッヘルベルの「カノン」だろうが、ビバルディーの「四季」、エルガーの「愛の挨拶」と「威風堂々」、ビゼーカルメン」など、曲名をあげればきりがない。ふた昔前なら、「エリーゼのために」が電話の「お待ちください」の音楽だった。コマーシャルにもクラシックが多く使われてきた。

 初めて聞いた曲だが、いいなあと思って調べることもある。その代表的なのが、マスカーニの「カバレリア・ルスティカーナ」だ。曲名を知ってから、テレビなどで何度も耳にしているが、ローマを散歩中にどこからか、たぶん博物館のBGMだったかもしれないが、この曲が流れてきて、「おおっ!」と立ち止まったことがある。ピエトロ・マスカーニはイタリアの作曲家で、有名なのはオペラ「カバレリア・ルスティカーナ」の間奏曲だ。テレビで、このオペラを放送していて、オペラ嫌いの私でも一応見てみたら、やはりこの間奏曲のシーンだけがよかった。

 オペラと言えば、オペラが重要な要素になっている映画「耳に残るは君の歌声」(2000)が素晴らしかった。何の予備知識もなく、テレビでやっているから一応予約録画しておいただけなのだが、素晴らしい音楽映画という面もあって堪能した。最初はジプシー音楽に魅了されていたのだが、オペラシーンでの歌に聞き覚えばあり、気になって調べてみた。映画で聞いたのは、ビゼーの「真珠採り」の中のアリアで、その歌の名は「耳に残るは君の歌声」。映画のタイトルはここからきているのか、なるほど。オペラが嫌いな私にも耳なじみがあったのは、この曲がタンゴにアレンジされ、アルフレッド・ハウゼの「真珠取りのタンゴ」として子供の時から聞いていた。だから、知っているメロディーだったのだ。この映画で使われたオペラのテノールもよかった。オペラと言えば、映画「永遠のマリア・カラス」で流れたカラスの歌声も、映画館で聞くと迫力があって、よかった。こういう例外もあるが、合唱も含めて歌曲は嫌いだ。ベルカントが嫌いなのだ。だから、グレゴリオ聖歌なら聞いていられる。古楽もいいなあ。

 コンピレーション(寄せ集め盤)で名曲を次々に聞き、気に入った作曲家のCDを改めて買う。そうやって、愛蔵曲ができていく。バッハの「G線上のアリア」は、さまざまなバージョンで聞いたが、どれもいい。何度聞いても耳タコにならないという点では、パッヘルベルの「カノン」と違うところだ。

 YouTubeで、イツァーク・パールマンの演奏を聞いていて、「これはいい!」と何度もくりかえして聞いたのが、ラフマニノフの「ボカリーズ」だった。ボカリーズだから、母音のみで歌う歌曲なのだが、最初にバイオリンで初めて聞いて、そのあと歌唱版をいろいろ聞いたが、パールマンのバイオリン以上に感動的な演奏はなかった。

 他に、何度聞いても「いいなあ」とうっとりするのは、フォーレの「シシリエンヌ」(シチリア風の意)。シシリエンヌは音楽形式で、これはフランス語。イタリア語ではシチリアーナ(女性形)やシチリアーノ(男性形)も使われる。レスピーギの「シチリアーナ」もいい。バッハもこの形式の曲を作っていると知って聞いてみたのだが、ネット情報では別人の作品らしい。パバーヌも音楽形式だから、バッハもラベルも作っていて、どちらもすばらしくいい。そして、時には、こういう曲のジャズアレンジも聞いたり、逆にジャズアレンジされた曲のオリジナルを聞いたりして、音楽生活を楽しんでいる。

 そういえば、好きな音楽家は、フォーレ、ラベル、ドビュッシーとあげていくと、フランス好みなのかもしれないという気もする。

 

 

2052話 続・経年変化 その18

音楽18 クラシック・ソウル その2

 前回からの続き。

 いままで、ソウルとR&Bの説明をしてこなかったが、じつは明確な区別があるわけではないようだ。ゴスペルの影響が強く、シャウトする唱法が多いのがソウルだという説もあるが、甘い歌声のコーラスもあるから、全部シャウトする歌をさしているわけではないが、このコラムではソウルという語を使う。

 私にとって、「これがソウルだ、ウキウキするぞ!」という気持ちにさせてくれるのは、これだ。夏が来た。さあ、街で踊ろうよと誘いだす歌だ。

 MARTHA and THE VANDELLAS - Dancing In The Street (1964)

 同じように、体が動き出すウキウキ曲がこれだ。RCサクセッションやウルフルズが好きなら、きっと気に入る。

 Arthur Conley-Sweet Soul Music

 私にとって最高のソウル歌手はオーティス・レディングで、ここではこれを紹介しておこう。

 Otis Redding - I've Been Loving You Too Long (To Stop Now)

 1960年代後半の高校生時代にこういう歌をトランジスタラジオから聞き、ブラックミュージック好きは決定的となった。だから、こういうスタイルの音楽が好きなのだが、古いスタイルだということで、「クラッシク・ソウル」に分類されている。それを「時代遅れ」と恥じる気はまったくない。大好きなんだから、しょうがない。他人の目なんかどうでもいい。

 演歌ファンは毎度おなじみの調べが大好きで、「それがいいんだよ」というのと同じように、心も体もウキウキさせてくれる「毎度おなじみのソウル」が私は大好きなのだ。高校生時代にラジオで聞いた歌手を改めてまとめて聞きたくて、CDを買うことになる。アーサー・コンレイもアル・グリーンも期待した以上によかった。なかには、「やっぱり、一発屋だったか」という歌手もいて、一応CD1枚聞いてみたが、「Rainy Night in Georgia」(Brook Benton)だけは、やはり名曲だ。Georgiaといえば、Gladys Knight & The Pipsの”Midnight Train To Georgia”も大好きな名曲だ。

 こういうソウルを聞いていると、演歌の世界も少しはわかってくるのだ。サンバにしてもファドにしてもソウルにしても、結局は世界の演歌を好んで聞いている自分に気がつく。

 この音楽シリーズのコラムで「ブルース」という項目はない。アメリカ各地のブルースを少しは聞き、古い時代から現代まで聞いてみた。「いいなあ」と思う歌手はいくらでもいるが、CD1枚じっくり聞いてもまったく飽きない人はあまりいない。「ジョン・リー・フッカーロバート・ジョンソンなんか、いいよなあ」と感じつつ聞いているが、しばらくすると飽きてくる。どれを聞いても「いいなあ」になるのが、やはりといえば、やはりの当然だが、B.B.キングだ。どのブルーズCDを買おうかなと迷っていると、安全策でBBについ手が伸びる。ピアノ・ブルーズのオーティス・スパンもいい。

 アメリカで開催されたブルース・フェスティバルの映像を見た。1990年代だったと思う。ブルース歌手が演奏しているステージから、カメラが客席に向くと、そこは白人の世界だ。黒人たちは、ブルースなんて古臭い音楽は聴かないのだ。

 「1960年代に入ると、仕事はどんどん減っていったんだ」とテレビのインタビューでB.B.キングが話していた。ある日、コンサートの仕事が入って、バスで会場に向かっていると、歩道にあふれるほどの人がコンサートが始まるのを待っている光景が見えた。ロックコンサートだろう。「オレも、あんな大勢の客の前で演奏できればいいな。うらやましいと思っていたら、バスはその会場の駐車場に着いたんだ。フィルモアさ」。ライブハウス、FillmoreがニューヨークのEASTとロサンゼルスのWESTがあり、1971年に行なったB.B.のコンサートはライブ盤になった。客のほとんどは、もちろん白人だった。

 

 

2051話 続・経年変化 その17

音楽17 クラシック・ソウル その1

 演歌の製作スタッフは、音楽的センスも技量もないと思っていた。毎度毎度、さらに毎度おなじみのイントロと曲調と歌詞で、やはり毎度おなじみの節回しで歌うものを「新曲」として発表する。工夫というものがないのか。だからと言って、流行のリズムを取り入れろとは言わないし、美空ひばり(彼女は演歌歌手ではないが)の「真っ赤な太陽」のようなみっともない歌に仕上げてくれと願っているわけではないが、もう少し何とかならないか。

 そんなことを考えて、フト思いついた。私はソウルとかR&Bと呼ばれるブラックミュージックが大好きなのだが、時代的には70年代あたりまでで、マイケル・ジャクソン以後のブラックミュージックは好きになれない。映画「ブルース・ブラザース」(1980)で流れているような音楽、オーティス・レディング、サム&デイブ、アレサ・フランクリン全盛期の音楽が好きで、管楽器が鳴って、歌手がシャウトする・・・。そうか、演歌のお決まりのスタイルと、根は同じなのだ。ソウル音楽の、「ご存じ。毎度おなじみ」の音がたまらなく好きなのだ。60~70年代のソウルミュージックだ。私もまた、演歌ファンと同じように、「毎度おなじみ」のベタな音楽が好きなのだ。「毎度おなじみ」とは、別の言葉で言えば、ジャンルということだ。

 そんな古臭い音楽はダメだ、嫌だと感じた若者たちが、あっさりした、スマートな、汗の匂いなんかしないR&Bやヒップホップを作り出したのだが、それは私の趣味ではない。アマゾンの「ミュージック」で、私好みのCDを探す。「ソウル・R&B」をクリックすると、

クラシック・ソウル

ゴスペル

ファンク

ディスコ

モータウン

ブラックコンテンポラリー

R&B

 というサブジャンルに分かれていて、何度か探ってわかったのは、私が大好きなのは「クラッシク・ソウル」に分類されている音楽らしい。自分自身が「クラッシック」に分類される年齢になっているという現実を突きつけられているようで、ちょっとひるんだが、おもに1960~70年代のソウルなのだから、「クラッシック」と呼ばれても、まあしょうがないか。半世紀以上前の音楽なのだから。

ゴスペルは、アフリカ系アメリカ人の讃美歌で、このキリスト教賛美が気に障り、今までずっと聞かないできたが、まあ、ここはひとつじっくり聞いてやろうと何枚かのCDを買って聞いたのだが、やはりだめだ。声明にしても、ちょっとはいいのだが、長く聞くと飽きる。

 ディスコという施設も、そこにやってくる人たちの姿行動が肌に合わないのだが、そこで流れている音楽は、わりと好きだ。

アべレイジ・ホワイト・バンド

カーティス・メイフィールド

アース・ウィンド・アンド・ファイアー

ファンカデリック

クール&ザ・ギャング

スライ&ザ・ファミリー・ストーンなどのCDは買っている。

 自動車工業の街デトロイトが生み出したモータウンサウンドはもちろん、何枚も買っている。程度の差はあれ、どのグループも歌手も好きなのだが、どうも肌に合わないというのが、大御所マービン・ゲイマイケル・ジャクソンだ。なぜ好きになれないのか簡単に言うと、「泥臭い音楽が好きだから」と言っておこうか。

 短いコラムにしようと思っていたが、長くなってきたので、続きは次回。