190話 外国語の教育史


  以前、外国語学習の日本史を知りたくて、ちょっと調べたことがある。幕末に蘭語から英語に変わっていく事情は多少知っていたが、明治に入ってからが茫洋と していてよくわからない。そこで、東京外国語大学の資料を読んでみたのだが、『広辞苑』のように厚い資料をバッタバッタと読み始めたものの、あまりに詳し すぎてよくわからなかった。連続する組織再編に、私の根気と好奇心がついていけなくなったのである。
 そんなわけで、外国語学習史の調査は、ながらく手をつけていなかったが、ついさっき、ネットで調べ物をしていたら、ひょんなことから東京外国語大学の ホームページに行き当たり、沿革がわかる年表をみつけた。かなり詳しいので、その資料をちょっと解読してみよう。
 東京外国語大学のおおもとは、1873年にできた東京外国語学校で、英、仏、独、露、清語の5学科だった。
 翌74年に、東京英語学校が設置されたことにより、英語学科がなくなって、4学科になる。学校ができて1年後に英語コースがなくなったのが興味深いが、 それだけではない。85年には仏、独語も抜けている。80年に朝鮮語学科が加わっているので、5−3+1で3学科しかない。
 こうなった理由は、東京英語学校の組織再編と関係が深い。74年に設置された東京英語学校は、77年に官立東京開成学校と合併して、東京大学予備門とな る。そして、86年第一高等中学校となり、94年には第一高等学校となる。当時の大学教育というのは、西洋の学問を日本に取り入れることだったので、高等 学校は大学で外国語の本が読めるだけの充分な力をつける役割りを与えられた。旧制高等学校が英語とドイツ語かフランス語教育に力を入れた結果、東京外国語 学校で学べるのは、97年までは、露、清、朝鮮語の3言語だけだった。
 その後学科はどんどん増えてゆき、1911年の時点では、13学科になっている。その13言語とは、英、仏、独、露、西、清、韓、伊、蒙古、暹羅、馬 来、ヒンドスタニー、タミルだ。言語の表記は原文のママだが、1880年には「朝鮮語」としているのに、その後の1897年の記述では「韓語」になり、 1911年には、「韓語学科から朝鮮語学科に改称」とある理由がわからない。疑問は改称だけではない。1927年には、朝鮮語は廃止されているのだ。反日 運動が影響しているのかどうか、そのあたりの事情はわからない。
 言語名の改称ということでは、1913年に清語学科が支那学科になったのは、おそらく1912年に中華民国が成立したことによるものだろう。
 タイ語もややこしい。国名を簡単に変えてしまうからだ。
 1911年に「暹羅語学科」が生まれた。この漢字で、「シャム語学科」と読む。
 1939年に国名がシャムからタイに変わると、41年に暹羅語から泰語になった。
 1946年に国名がタイからシャムに変わると、46年にタイ語からシャム語に改称。
 1949年に国名がシャムからタイに変わると、61年にシャム語からタイ語に改称。

 こうしたこまごまとした資料をもとに、さまざまな言語の教育史を知りたい。例えば、『東 京外語支那語部  ―交流と侵略のはざまで―』(藤井省三、朝日選書、1992年)という本がある。こういう傾向の本で、現在までの「中国語と日本人の歴 史」や「朝鮮語と日本人の歴史」を知りたいのだ。現実でもイメージでも、1950〜60年代に朝鮮語や中国語を学んでいた者は共産主義者だと思われてい た。あるいは朝鮮語がわかると、「在日」だと思われていたり、タイ語タガログ語ができると「女遊びに精出す人」だと思われていただろう。そういうイメー ジも含めて、日本人の外国語教育・学習史を読んでみたいのである。