189話 『地球の歩き方』とアーサー・フロマー その2


 アーサー・フロマー(Arthur Frommer)は1931年、ニューヨーク生まれ。ニューヨーク大学でジャーナリズムを学んだあと、エール法科大学院に進み、「エール法律ジャーナル」の編集者となる。
 朝鮮戦争で徴兵されるものの、任地は朝鮮ではなく、ヨーロッパだった。1953年のことだ。彼は休暇のたびに任地ドイツからヨーロッパ各地へと旅行し、 その経験を生かして、1955年に米兵向けの旅行ガイドを自費出版する。50セントで売り出した“The GI’s Guide to Traveling in Europe”は5000部も売れた。
 この本をインターネット古書店のサイトで調べてみたら、現在429ドルの値がついていた。アメリカ人の旅行スタイルにとって、旅行史上記念碑的な貴重本なので、このくらいの値段でもおかしくない。
 フロマーは退役後の1957年、米兵向けのこのガイドブックを民間人用に作り直して、ふたたび自費出版した。それが“Europe on 5 Dollars a Day”である。つまり、初版の1957年の時点でも、ヨーロッパを1日1ドルで旅行するのは、難しかったのだ。
 西川氏自身、「KAWADE夢ムック アジアン・トラベラーズ」(河出書房新社、2000年)のインタビューで、『ヨーロッパ一日5ドル』(アーサー・ フロマー著)をモデルに、「地球の歩き方」を作ったと答えている。内容や読者投稿といった構成はもちろん、小口を青くするデザインも、アーサー・フロマー のマネだと告白している。新井氏はこの資料も読んでいないのかもしれない。あるいは、記憶を頼りに、いい加減な英訳で書名をでっち上げたということか。本 の名を英語で書いたほうが格好いいと思ったのだろうか。
 私がアーサー・フロマーの本を初めて知ったのはいつのことやら、かいもく記憶がない。ヨーロッパの本ということで、関心がなかった上に、「何ドル」とい う数字が変わるので、書名をはっきりとは覚えていなかったのである。たしか、小田実の『何でも見てやろう』にも、アーサー・フロマーの本のことが出ていた はずだと調べてみると、こういう文章が見つかった。小田がヨーロッパを旅行したのは、1959年か1960年だろうと思う。

 (ヨーロッパでアメリカ人がたむろしている場所を探すに は)アメリカでのかくれたるベスト・セラー『ヨーロッパ一日五ドル旅行』というのが大いに役たった。この本には、パリその他の観光地の安ホテル・安レスト ランのリストがかかげられていて、その指示どおりに暮らせば1日五ドルであがるしくみになっている。おどろいたことに、現今のアメリカ人旅行者はたいてい こいつを持っているのであった。

 1957年に自費出版した本が、わずか数年でかくも普及したとわかる文章だ。1979年に『地球の歩き方 ヨーロッパ』が発売されるまでは、日本人もこのシリーズを使っていたのだ。
 日本語訳は、少なくとも2冊出たことはわかっている。著者名のカタカナ表記は、原文のママ。

 1963年 『ヨーロッパ(1日5ドル)の旅』(アーサー・フロンマー著、信木三郎訳、日本評論社
 1981年 『ヨーロッパ1日4000円の旅』(アーサー・フローマー夫妻著、滝本泰行・文江訳、エンジョイ・エコノミック・クラブ発行、大学生協連「CO−OP海外の旅」発売)

  1980年代に団塊ジュニアたちを外国に連れ出したのは、生協ツアーと、DTS(ダイヤモンド・スチューデント・ツアー)だ。生協は、1981年にフロ マーの翻訳を出し、DTSは79年にフロマーを翻案した『地球の歩き方』を出したあたりが、なんとも興味深い。リクルートはツアー路線のまま、ツアー広告 雑誌「AB−ROAD」を刊行して、バブル景気に乗って、海外旅行者数1700万人時代へと突入していく。
 「1日5ドル」で始まったヨーロッパの旅は、その後どうなったのか。「○ドル」の数字の部分がどう変わったのか詳しいことはよくわからないので、わかったことだけを紹介しておく。
 このシリーズの1978−79年版では「10ドル」。82−83年版では、「20ドル」。86年版では「25ドル」。90年版では「40ドル」、93年 版では「45ドル」。2000年版では「From 60 dollars」、2001年版では「From 70 dollars」。いくつかの情報では、1957年以来50周年を記念して、2006年に「From 95 dollars」(あるいは「From 90」という情報もある)で終わりにしたらしいが、なぜかアマゾンでも確認がとれない。
 アーサー・フロマーのガイドブックは、現在のロンリープラネットのような革新的ガイドではないが、「賢く程よい節約旅行」を目指した内容で、それがドル 安のせいで、「1日100ドル」を越えるような本にはしたくなかったと、フロマー自身がインタビューで答えている。それが、この「1日○ドル」シリーズを 終了させた理由だそうだ。