戦前は共産党の活動家で、戦後は「大物右翼」とか「政財界の黒幕」とか「大物フィク サー」などと呼ばれた田中清玄(たなかせいげん。1906〜93年)とタイの関係がちょっと気になっていたので、そのことだけを書いてみたい。田中をはじ めさまざまな人物や事柄に言及するが、その説明をきちんとしていくと、いつまでたっても文章が先に進まないので、意識的に不親切な文章になっている。詳し く知りたい方は、ネット情報などで各自調べていただきたい。
私は「清く正しい」人物が特に好きというわけではないが、「業界の黒幕」とか「影の実力者」といったウサン臭い輩も嫌いで、1993年に文藝春秋から 『田中清玄自伝』が出たときも、書店でその本を手に取ることもしなかった。この自伝は、毎日新聞記者大須賀瑞夫が田中に長時間インタビューしてまとめたも のだ。
その自伝が2008年にちくま文庫に入ったのを書店で見つけ、つい買ってしまった。この本で、タイに関する部分はわずか10ページしかないが、ほかの部 分同様どうもよくわからないのだ。この自伝を小説のように読んだ人は、「おもしろい」とプラスの評価を与えるようだが、現代史の参考資料として精読してい くと、疑問点が多いのである。
ここでは、田中清玄論も書評もしない。『自伝』の内容紹介もしない。田中がタイでの活動について語った部分だけを点検してみようと思う。
田中がタイに行ったころのことを、こう語っている。
「もちろん占領下ですから、海外に出るにはGHQの特別許可が必要でした。GHQも最初のうちは快く出していた、後になると渋るようになってきた」
巻末の年表を見ると、「1955年 タイ訪問」とある。あるいは本文の別の部分に、「僕も1955年にタイに家を持って、5年間にわたりタイと日本を往 復する生活をしていたんです」とある。日本が占領下にあったのは、サンフランシスコ条約が締結される1952年までだから、1955年なら当然占領下では ない。そもそもGHQなど、もうないのだ。
こういう文章もある。「ピブンさんは戦時中、日本に協力したということで、戦犯容疑で裁判にかけられていたわけですが、私が行った頃は、ピブンさんに無 罪判決が出た直後でした」。ピブンとは、戦前と戦後の両時代に首相をつめた政治家プレーク・ピブーンソンクラーム(1896〜1964年)のこと(以下ピ ブーンと表記する)。ピブーンの話は、このアジア文庫のホームページの別項で、すでに書いた。
さて、ピブーンが釈放されたのは1946年だから、田中がタイに初めて行ったのは戦後間もない占領下の時代ということになるが、そんなに早い時代に渡航 したのだろうか。公式記録では、戦後10年間の海外渡航者数は不明だが、旅券発給数はわかる。1946年は8件で、そのうちのひとりが田中だというのだろ うか。もしそうなら、戦後はじめてタイに渡った日本人ということになるだろう。でも、ホントかい?
田中がタイに渡ったいきさつもよくわからない。田中はこう語っている。
「そもそも私をタイに紹介したのは池田成彬さんです。池田さんは吉田茂さんの依頼を受けて、三井物産のなかにタイ室を作り、三井銀行を通じてタイの開発に力を注いでおりました」
池田成彬(1867〜1950年)は三井の重鎮。「タイ室」についても、この雑語林ですでに書いたが、その「タイ室」の略歴は正確にはこうなる。
1935年 三井合名会社内に三井暹羅室を設置
1940年 三井から独立し、タイ室東京事務所と名称変更
1951年 財団法人タイ室と改称
1967年 財団法人日本タイ協会と合併して、財団法人日本タイ協会となる
具体的に、タイで何をしていたのかもよくわからないが、要するに日本企業とタイ政府の間を取り持つ黒幕だ。次回は仕事の話など、少し。