728話 警察官僚のアメリカ旅行


 神保町の古本屋の店頭ワゴンで、古い旅行記を見つけた。210円と安いから、内容をよく確かめずに買った。1950〜60年代の海外旅行記なら、安ければとにかく買うということにしている。日本人がまだ自由に外国に行けなかった時代の、日本人の海外旅行体験を知りたいからだ。
 『アメリカところどころ』(田中栄一、自警会、1954)という非売品の本だ。帰宅途中の車内で読み始めると、著者は警察官僚らしいとわかってきた。本に紙片が挟まっていた。
 「警視庁の全庁員諸君! 私は去る九月三日、第六十回国際警察長会議出席のため羽田空港を出航し、アメリカに赴いた(以下略)」。その旅の報告をしなければいけないが余裕がないので、本にしたので読んでほしいというとあり、末尾に「警視総監 田中栄一」。この名に記憶はないが、1953年に警視総監がアメリカに行った旅行記だとわかる。
 私が無知だというだけで、調べてみれば田中栄一(1901 ~1980)は有名人だった。ウィキペディによれば、幼くして孤児となり、大分のホテルで給仕をしていたときに海軍士官に「偉くなりたいなら、上京して勉学に励め」と言われ、苦学して東京帝国大学で学び、内務省官僚。戦後は東京都の職員から、1948年に第61代警視総監。1958年から76年まで自民党の国会議員だったという、立身出世を絵に描いたような人物だ。
 田中栄一という名に記憶はなかったが、田中警視総監が関わった事件は知っていた。1948年の「上野公園。男娼、警視総監を殴る」という事件は知っていたが、殴られた警視総監の名が田中栄一とは知らなかった。
http://wisnet.ne.jp/~junko/junkoworld3_3_14.htm
 東大ポポロ事件当時の警視総監でもある。
http://www.ammanu.edu.jo/wiki1/ja/articles/%E6%9D%B1/%E5%A4%A7/%E3%83%9D/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E3%83%9D%E3%83%9D%E3%83%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6.html
 初めから、「多分、おもしろくないだろう」と思っていたので、期待を裏切られたという失望感はない。普通の観光旅行記ではないので、アメリカの交通行政に関する考察など、それなりにユニークな視点はある。それほどひどい本ではない。
 以下、この旅行記のなかから気になった部分をいくつか書き出して見よう。
■警視総監の公務渡航だからといって、潤沢な旅費が支給されたとは思えないが、カネの話は出てこない。立ち寄り先では大使館や日本企業駐在員などの接待があったようなので、自分で払ったのは(もちろん公費だが)ホテル代くらいかもしれない。
パンアメリカン機内で。「退屈しのぎに階下の喫茶室に下りて、コッカ・コーラーをスチュアー・デス嬢に貰って飲んだりした」(原文ママ)。1953年時点のコーラ事情はともかく、飛行機事情に疎い私は、「階下の喫茶室」というのがあったことに驚く。飛行機史の資料は棚にあるのだが、暑いので取り出して調べる気がない。
■当時の太平洋ルートは、羽田―ウェーク島―ハワイ―アメリカ本土と飛んだ。ウェーク島では気候観測をしているアメリカ人職員が、「いずれも日本のゴム草履を履いていた」。ゴム草履やビーチサンダルも、私の興味範囲なのだが、いつまでたっても研究は進展しない。戦後のゴム草履の輸出には、駐留米兵が深く関与しているような気がするので、深く調べたいという好奇心はある。
■サンフランシスコの路上駐車に関し、パーキングメーターについて書いている個所。「15分で25セントが相場であるが、若し時間を超えて駐車をしていると、オート三輪に乗り駐車の点検に走り回っている交通専務の巡査が来て、罰金5ドルの支払命令書をその車に挟んでいく」。サンフランシスコに、オート三輪? 読み進めると、数ページ先に、 「(アメリカでは)大体スクーター、三輪車などというものからして見当たらない。だから、速度の統制が取れるので取り締まりもし易いし、また事故も少ないのである」と書いているから、アメリカに三輪車はないことになっている。アメリカの都市をかなり廻ったあとでは、こう書いている。
 「ニューヨーク・デトロイトの両警察当局では、騎馬巡査を第一線に立てて交通整理、並みに駐車の取り締まりに当たっているが、注目すべきことであると思う。また駐車の取締には、オートバイでは停車して検問するときに、又は手帳に記入の時など不便であるので、何処の警察でも無線電話を取付けたオート三輪を利用しており、それが相当なスピードで市内を走り廻っているのを随所に見かけた」ということは、警察車両としてオート三輪があったということか。アメリカ製のオート三輪などあったかどうか知らないし、1953年の時点では日本製の輸入車とは考えられないので、イタリアのランブレッタやピアージオなのか、ちょっと興味深い。
■そこで、調べてみた。著者のいう「オート三輪」とは、ハーレー・ダビッドソンのサービスカーというトライク(三輪オートバイ)のことだとわかった。警察車両として利用していたという説明もあり、これで間違いないだろう。やはり、不審に思った事柄は、調べてみるべきだ。調べれば、少しはわかる。
https://en.wikipedia.org/wiki/Harley-Davidson_Servi-Car
■こんな文章もある。「ニューヨークでも街角にパチンコ屋がちらほら見える。しかし日本のように軒を並べてやっているのは見なかった。またこのパチンコ屋は日本のように薄暗くはなく、昼間のように明るいのは特徴である」。
 この雑語林では、すでにロンドンのパチンコ屋について書いている。雑語林537話だ。
 http://d.hatena.ne.jp/maekawa_kenichi/20131101/1383313605
警視総監が書く「ニューヨークのパチンコ」とはウォールマシンのことなのか、それとも日本のパチンコだったのだろうか。これも詳しく調べないとわからない。これは、手がかかりそうだ。