ある日、本棚の整理をしていて、あらためて気がついた。買ったままで、まだ読んでいない本が100冊近くもあるのだ。買ったまま読んでいない本があること は、もちろんわかっていたが、本棚の奥やテーブルの下でほこりをかぶっている本の束を見つけ、これはイカンと思った。いくらなんでも、買いすぎだろう。
しばらく本を買うのをやめて、未読の本に手をつけよう。そういうわけで、ここ数か月間で買った本は5冊ほどで、未読の本を右から左へと読んでいるのだ が、相変わらずの牛歩読書である。読むのがノロいのだ。もともと、読むのはそれほど早いわけではない。「根気に欠ける」「集中力がない」「散漫」と、小中 学校時代から教師に言われ続けてきた私だから、電車のなかでさえ30分がせいぜいで、自宅なら集中力はもっと続かない。コーヒーをいれたり、机の上の雑誌 に手を伸ばしたりしたくなる。
ここ何年かで言えば、電子辞書とインターネットが読書の味方であり、敵でもある。
さきほどから読み始めた『私の建築事典』(清水一、井上書院、1972年)に、「アッパッパァ」という語に関するエッセイが出てくる。大工用語で、吹き 抜けを「アッパッパァ」といい、それがぶかぶかのワンピースをさす言葉になり、そのおおもとは英語の建築用語“UPPER PART OF DINING ROOM”などの“UPPER PART”なのだと著者はいう。こういう記述があると、辞書やネットで確認したくなる。すると、建築用語や服飾用語や方言などで、「アッパッパ」に関する 情報が出てきて、しばし読みふける。語源の話はおもしろいのだが、いいかげんな俗説が多く、やたらに信用してはいけないなどと自戒して、さらに詳しく調べ 始めるので、読書からどんどん遠ざかる。本を1ページ読むと、ネット情報を30分は読む。牛歩読書どころか、かたつむり読書だ。
『私の建築事典』に目を戻し、「雨戸」の項を読んでいると、「舞良戸」という語が出てきた。読み方さえわからない。どんなものなのか知りたくなる。さっ そくインターネットで調べれば、「まいらど」と読むことがわかり、写真やイラストも出てくる。ふむふむと、またネット情報を読みふける。
しばらく本は買わないと決意したものの、『人と魚の自然誌 ― 母なるメコン河に生きる』(秋道智彌・黒倉寿編著、世界思想社、2008年)はおもしろそうだから買い、例によって読みながらラオスのことをネットでいろ いろ調べているうちに、ライターの高野秀行さんのブログで、ラオスを舞台にした小説があることを知り、すぐさま注文してしまった。その本、『老検視官シリ 先生がゆく』(コリン・コッタリル、雨沢泰訳、ヴィレッジブックス、2008年)は、1976年のラオスを舞台にしたミステリーで、いくつかの文学賞を受 賞しているようだが、小説嫌いの私にはそれほどおもしろい作品には思えなかった。とりあえず最後まで読んだので、特にひどいというわけではないが、霊能力 者がでてくる小説は好きになれない。本文中、「ねばっぽいご飯」というのがでてくるが、多分原文は“sticky rice”で、モチ米の飯のことじゃないかあ。
そんなことをやっているうちに、しばらく封印していたアマゾンのチェックをしたくなり、古書コーナーのリストを眺めていると、古いアジア関連書や旅行史 資料を次々と注文してしまった。ダイエットにおけるリバウンドと同じで、いくら古本屋に本を売っても、結局、また本が増えてしまう。
いま、「買ったんだから、読みなさいよ」と、書棚から私を睨みつけているのが、曽野綾子が1966年のタイを舞台に書いた『無名碑』(講談社、1969 年)。数年前に買い、そのままになっている。「あとがき」に、タイ事情の執筆協力者として、『タイの象』やタイ文学の翻訳で知られる旧知の桜田育夫さんの 名もあることだし・・・。しかし、2段組440ページの作品は、小説嫌いの者には、読む気を萎えさせる。