前回の復習になるが、東京外国語大学の前身である東京外国語学校が設立されたのは1873年で、そこに「朝鮮語学科」が加わるのは1880年のことだ。単なる想像でいうが、これが日本最初の朝鮮語教育所だった可能性は高いと思う。
戦後だと、たしか天理大学が早かったはずだなあと思い調べてみると、「なるほど」という事実がわかった。天理大学のそもそもの始まりは、天理教を海外に 布教する人材の育成機関である天理外国語専門学校だ。開校した1925年当初から、朝鮮語教育が始まっていた。戦後になると、49年に専門学校から大学に 変わり、50年には朝鮮語教育が始まっている。
のちに大宅賞作家となる荻原遼は、1950年代後半当時、朝鮮語に興味をもつ高校生だった。荻原によれば、朝鮮語が学べる大学は当時、天理大学しかな かったそうだ。成績優秀な高校生だった荻原は、自信満々で受験したにもかかわらず不合格になった。試験の結果には自信があったから、彼の思想が問題にされ たのだと当人は書いている。当時、天理大学の朝鮮語学科は共産主義者の取り締まりや、密入国者を取り締まる警察官の養成機関でもあった。一方荻原は、高校 生にしてすでに日本共産党の党員だったというから、そういう高校生を入学させるわけはない。そういう話が、『北朝鮮に行った友と私の物語』に載っている。
天理大学に入学を拒否された荻原は、塾のような組織を見つけ出す。北朝鮮に帰国する朝鮮人の日本人家族に朝鮮語を教える、朝鮮総連の朝鮮語塾だった。共 産主義者ゆえに天理大学の入学を拒否された荻原は、こんどは日本の公安のスパイを疑われて、厳しい身元調査をされたそうだ。
結局、荻原は大阪外国語大学の戦後最初の朝鮮語学科に入学する。1963年のことだ。入学まで浪人生活が長かったので、卒業したら30歳になっていた。
1960年代、いや70年代に入ってからでも変わらなかったかもしれないが、この時代、ある言語を学ぶことは、たんに「おもしろそう」では済まされない 政治的立場を要求された。ドイツ語やイタリア語を学ぶならとりたてて問題はないが、朝鮮語や中国語を学ぶ者は、共産主義者か、その共産主義者を取り締まる 公安側の人間だと受けとられた。
朝鮮語を学ぶ者は、北朝鮮のシンパである共産主義者か、あるいは米帝(アメリカ帝国主義)と手を組む韓国の手先か、対極のイメージで受け取られた。中国語でも同様で、中国語を学んでいても、中国派か台湾派か、態度をはっきりとさせる必要があった。
戦後の大学での朝鮮語教育の歴史は、1950年の天理、63年の大阪外国語大のあとはどうだったのだろうか。TJF(国際文化フォーラム)という組織 に、日本の大学における朝鮮語教育の歴史がわかる詳しい資料が載っているのだが、大阪外国語大学で朝鮮語教育が始まるのが「1961年」としているなど、 どこまで信用できるものか不明ではあるが、ほかの資料も使いつつ、1980年代末までの事情を書き出してみよう。これは「朝鮮語科」といった学科の新設だ けでなく、学べる外国語のなかに朝鮮語が加わった年だ。
1950 天理大学
1963 大阪外国語大学
1968 京都精華大学(開学と同時)
1974 九州大学
1976 筑波大学
1977 東京外国語大学、桃山学院大学
1978 富山大学
1979 日本大学
1985 関西大学
1986 恵泉女学園大学、創価大学
1987 北陸大学(外国語学部新設時)、神田外語大学(開学と同時)
1988 法政大学、明治学院大学、花園大学、新潟産業大学、
1980年代末に増えるのは、88年のソウル・オリンピックと多少の関連があるようだが、朝鮮語を教える大学が一気に増えたのは、2000年前後だ。