冨田竹二郎先生は、翻訳書を通じてタイに親しみをもたせてくれた。『タイからの手紙』や『田舎の教師』などの翻訳は、おびただしい数の訳者注があり、タイの衣食住など生活を教えてくれた。戦時中のタイ留学時代から集めていた資料を使って、1987年に2200ページもある大著『タイ日辞典』を養徳社から自費出版した。「この辞書が使えるんだから、タイ語を学ぶことにしてよかった」という話を、各方面で聞いた。この辞書は、タイ人も驚いた。通常のタイ語のほか、僧侶が使う特殊な表現や、王室用語、雅語、卑語、俗語などあらゆるタイ語が網羅されている。だから、「こんな辞書、タイにはないよ」とタイ人が言う。
私にはまるでわからない卑語をよく口にするタイ人がいて、「それ、どういう意味?」と言って、この辞書を差し出したことがある。その語を示して欲しいという意味だ。「だめ、そんな言葉が辞書に載っているわけはない!」と言うから、「試しにひいてごらんなさい」。
すると、「ああ、出てる!!」と驚き、「じゃあ、ほかの言葉は・・・」と別の卑語を探し、「ああ、あった。すごいぞ、この辞書」。「どれどれ」とその語の説明を読むと、「(性交のとき)腰を動かす」。そういう動詞があるんだと、私も驚く。
冨田先生も赤木さんも、確固たる決意でタイ語を学び始めたわけでなく、「たまたま」なのだ。動機よりも結果である。
その赤木さんの案内で、三重県名張市に住む冨田先生のお宅を訪ねたことがある。大きな洋間は、『タイ日辞典』の編集室だった。ここに、日本語とタイ語のタイプライターを置いて、印刷の元になる版下を制作していた。その頃の話や戦時中のタイの話など、夜遅くまでお話を伺った。爆笑の思い出話だったが、記録をしていなかったので、大かたは忘れてしまった。タイ語教育黎明期の話をまとめて聞きたいと思っていたが、その話に乗る出版社はなかった。出版のめどなどなくても、聞き書きしておけばよかったと思う。
養徳社版の『タイ日辞典』を改訂した『タイ日大辞典』(冨田竹二郎編、日本タイクラブ発行、めこん発売、1997年)が出てすぐ、「著者謹呈」で贈っていただいた。28000円の本だ。「これからも、タイのことを書いてくださいね」というメッセージだったのだろう。私は冨田先生の教え子ではなく、タイ語研究の学徒でもない。タイのおもしろいことを探している元コックのライターに、じつに親切にしてくださった。
それからしばらくして、冨田先生は亡くなった。「辞書を作ると命を落とすといいますが・・・」とおっしゃっていたのを思い出す。
冨田先生と辞書の話は、この雑語林にすでに書いた。437話、438話参照。1503話にも、次のようにちょっと書いた。
(神保町で)高い本を買ったとはっきり記憶に残っているのは、3万円ほどした『タイ日辞典』(冨田竹二郎編)をアジア文庫で買ったことだ。2000ページを超える画期的な辞典で、アジア文庫では、まるで3000円の本のようによく売れたそうで、間もなく品切れになった。この辞書は、冨田先生の大阪外国語大学の退職金を注いだ自費出版で、発行部数は知らないが500部だとしても、売上総額は1500万円、1000部なら3000万円になる。退職金と本の売り上げ収入が同じ年だったので、税務署が目をつけ、「査察が入りました。戦前から資料を買い集め、スタッフを雇い作ってきた辞書なのに、脱税を疑われました」と悲しそうな手紙をもらったことを思い出した。
税務署は、戦前からの研究活動や資料収集を必要経費とは認めない。2200ページの辞書もすぐさま完成するものだという判断だったようだ。
アジアの様々な言語と長年付き合ってきた研究者と雑談すると、この辞書が出たころから、「まさか、こんな小説が日本で翻訳出版されるなんて、私が生きているうちに実現するとは思ってもいませんでした」という話を何度も聞いた。その小説がシンハラ語だったりラーオ語だったりインドの諸言語だったりした。いままでの出版界の常識では出版できないタグイの言語の本だった。そういう少数言語の本が翻訳出版された背景に、トヨタ財団の援助があった。
たった今思い出したのは、1986年に出た『朝鮮語大辞典』(角川書店)の驚きで、図書館に行って調べ事をした。弁当(トシラク)などの説明を読んだ。その本も、読んで楽しい大辞書だった。
☆『タイ日大辞典』は長らく品切れになり、アマゾンでの古書価格は最高20万円を越えていたが、赤木さんの監修による改訂版がいよいよ近日発売予定となった。詳しくは、発売元めこんへ。