1927話 『タイ日大辞典 改訂版』 その3

 

 タイ語研究者やタイに関心を持つ者たちが敬愛を込めて『冨田辞典』と呼ぶ『タイ日辞典』あるいは『タイ日大辞典』が、他のタイ語辞典と明らかに違うところは、まずボリュームである。仏教用語や王室専用語、そして動植物名や市井の俗語卑語も網羅し、タイ事典のようになっている。そして、さらに魅力的なのは、冨田先生のおしゃべりである。井村文化事業社が出した翻訳タイ小説、例えば『タイからの手紙』や『田舎の教師』の訳注を読んだ人は、その詳しさとおもしろさに魅了されただろう。その翻訳者が書いた辞典なのだから、おもしろいに決まっている。知らないで書くが、こんなおもしろい辞典はタイにもないにちがいない。

 1987年の初版に関して、タイ語を学んでいるという日本人が、ネット上に「この辞典は不愉快だ」として、タイ人留学生の次の言葉を引用していた。「辞書は正しい言葉だけ集めればいいのに、この辞書は汚いタイ語も載せているのは許せない」。タイの教育界のお歴々たちが喜ぶ品行方正公明正大な立派だが嘘くさいタイ語だけを厳選して載せている辞典なんか面白いわけはない。「辞書は立派な言葉を集めた本」だと考えている人は、日本にも外国にも、決して少なくない。

 単語の意味だけを機械的に知りたいなら、単語帳や電子辞書で用が足りると考えている人はそれでいい。冨田先生がかねがねおっしゃっていたのは、「用例が載っていない辞書は、辞書として不完全だ」。だから、『冨田辞典』はできる限り多くのことばを集める網羅的であり、用例も多く集めた。

 届いたばかりの『タイ日大辞典 改訂版』のページを開いてみる。何も考えずに開いたページの左側にชัยの文字が見えた。「勝利」を意味するチャイで、よく使う語だから私でも知っている。ありがたい語だから、人名やチャイナート県など地名にもよく使う。「乾杯」のとき「チャイヨー!」というので、勝利のチャイと同じかと思ったが、綴りが違う。しかし、語源は同じらしい。

 「勝利」の項の説明を読んでいくと、ミーチャイは「勝利する」という意味だ。それはいいのだが、この語には隠語で「コンドーム」という意味があるというので、考えた。勝利とコンドーム? 「あっ、そうか」とわかった。人名の方のチャイだ。มีชัย วีระไวทยะミーチャイ・ウィラワイタヤ(1941~  )といえば、タイ人で知らない人はいないというほどの有名人で、別名は「ミスター・コンドーム」。産児制限エイズ予防に全力で取り組んでいる人物だ。リンクした上の記事では「メチャイ」と表記しているが、その経歴は日本語資料でもかなりあるほどの有名人だ。コンドーム普及に力を注いでいる人にちなんで、ミーチャイがコンドームの隠語になったのだろうというのが私の推測だが、『冨田辞典』をよく読むと、別のページにちゃんと解説文がある。1997年版には、「ミーチャイ」のあとに(⇒ミー)とあり、「ミー」の項目を調べると、「産児制限の普及に努力したミーチャイ・・・・」というがちゃんとある。さすがである。『改訂版』には、⇒の参照指示はないが、「ミー」の項に、ちゃんと説明がある。日本には、人名を使った隠語では、「コンドーさん」というのがあるなあ。

 この語を調べようとしたのではなく、たまたま開いたページに、私が知っている単語が目につき、説明文を読んだというだけのことで深い意味はない。特に探さなくても、興味深い語はいくらでも出てくる。

 引き続き、適当にページを開き、目に入った単語を読む。

 892ページは「ピー」のオンパレードだ。日本語だと「お化け」とか「幽霊」とか訳すのだが、タイ人は半分仏教徒であるが、あと半分は精霊信仰である。まあ、日本人と同じようなものか。アパートを借りるとなると、「この部屋にはピーがいるからいやだ」などという。ピーを使った語はいくらでもあり、その解説文を読んでいるだけで、タイ文化辞典を読むことになる。「コン・ピーピー」というのは直訳すれば「お化け野郎」だろうが、「やたらにパクる警官」のことらしい。ピー・スアは直訳すれば「布をまとったお化け」なのだが、昆虫の鱗翅目(りんしもく)あるいはチョウ目をさし、チョウ目の名がぞろぞろと列挙されているのだが、隠語もある。「昼のピー・スア」は蝶、「夜のピー・スア」は蛾のことだが、別の単語の夜を意味する語を使い、「ピースア・ラートリ」とすると、「夜の蝶」になり、娼婦やホステスの意味になるということは、バンコクタイ語教室で教わった。今『改訂版』を読むと、「映画館前のピースア」という語があって、「映画館前のダフ屋」という意味だそうだが、これはもはや死語だろう。

 さらに、ページをめくる。「ポーン」という見出し語が目に入った。タイワンドジョウが水面の餌に食いつくガポーッという音とあるから、擬音語なのだろう。タイワンドジョウライギョ(雷魚)のことで、ドジョウとはまったく関係ない。ドジョウと同じような場所に棲んでいるからという理由で名づけられた和名だそうだが、誤解されるので改名した方がいい。この擬音語はワニの尾が水をたたく音でもあるという。こういう語を知ると、日本語のホーホケキョ(ウグイスの鳴き声)のように、民族擬音語というものがあるような気がする。雪が降る「シンシン」など、音のない擬音語もあるなあなどと、言語学的興味もわく。

 このように、拾い読みしていても楽しいのが『冨田辞典』だ。機械的に単語の意味を知るだけならほかの辞典でも用が足りるだろうが、広く深い情報を得るには、この『冨田辞典』以外にない。

 以上で、『冨田辞典』の話を終える。