1791話 地域の専門家 その2

 

 東アフリカの旅を終えて、次の長期滞在地はバンコクに決めた。それまでなんども訪れているバンコクに腰を落ち着けて、バンコクの本を書いてみようかと考えたのだが、タイの専門家になりたいとは、もちろん思ってもいない。その時は、1都市を主役にした本を次々に書いていきたいと思っていた。

 バンコクを何も知らなくても、とにかく歩きまわっていれば、山ほどの疑問が沸き上がり、「これは、本になるかもしれない」という直感があり、探せば幸運にも日本語や英語の資料がいくらでもあり、手当たり次第に読みまくった。1年かけてタイ語を学んでも、資料を読むほどのタイ語力はつかないのだから、日本語と英語の資料を片っ端から読んでいたのだが、タイ語がまったくわからないのでは、研究に深みが出ないと思っていた時に、百科事典のような本が出た。『タイ日辞典』(冨田竹二郎、1987年)だ。タイ文字がろくに読めないのに、2200ページ、定価3万円近い本を発売直後に買った。この辞書を読めば、バンコクの本が書けると思った。タイ文字が読めないから、「辞書を引く」ということはできない。だから、最初のページから読んでいった。発音記号を見出し語にして、参考になりそうな単語説明をノートに書き出してバンコクに関する自家製辞書を作った。

 数年かけたバンコク散歩の結果、1990年に『バンコクの好奇心』(めこん)を出した。誰も書かないから自分で書いておくが、この本以前に、バンコクに関する一般書は出ていない。『地球の歩き方 タイ』は出ているが、バンコク全域の地図さえ載せていなかった(今も載せていないかもしれない)。そして、現在に至るまで、バンコクの歴史などを踏まえて描いた『バンコク大全』のような本は出ていない。タイの本と言えば、相変わらず、観光案内と食べ歩きと買い物ガイドが大半だ。

 私はタイの専門家になる気はなかったから、『バンコクの好奇心』を書いたら、次なる街を探した。バンコクで生活しながら、東南アジアへの旅も続けていたのだ。本を書きたくなるような魅力的な街は、マニラかジャカルタか、クアラルンプールか台北か、それともカルカッタか? 香港は山口文憲さんがすでに名作『香港 旅の雑学ノート』を書いており、私ごときがどんなに奮闘努力しても、あのレベルに近づくことは到底不可能だから、あの当時もっとも興味を持っていて何度も訪れた香港は滞在候補地から外していた。

 マニラは、アメリカかぶれのキリスト教世界のすさんだ街という印象だった。英語で取材ができるのは大きな利点だが、長く滞在したいとは思わなかった。ジャカルタは、友人の家に居候してしばらく街散歩をしたが、街の構成が頭に入って来なかった。のっぺらぼうに広いという点ではバンコクと同じなのだが、ピンと来なかった。バンコクなら、王宮周辺の旧権力の世界、その外に古くからの商業地区でもある中国人街、戦後できた現在のビジネス街があり、外国人駐在員などが暮らす高級住宅地、木造一戸建てのタイ人住宅地、そして郊外にレンガにモルタル塗装の戸建ての新興住宅地といった街の構成が容易につかめるのだが、ジャカルタはそれほど簡単ではなかった。交通の便はバンコクの方が上で、渋滞ぶりはあまり変わらない。

 それでも、これから数年ジャカルタで暮らすことになるかもしれないと思い、上智大学インドネシア語教室に通ってみたが、ジャカルタへの情熱が湧いてこないので、インドネシア語の勉強もやめた。それなら、「すでに基礎学力がついていたタイで、もう1冊書くか」という判断で、バンコクタイ語学校に通い、毎朝新聞を2紙読み、散歩し、資料を買い集めるという生活を続けた。しかし、バンコク以外のおもしろい街があるはずだという思いがまだあり、タイから出ることを考えつつ、タイにいた。ラオスベトナムカンボジアにも行ったのはその下調べだった。東京外国語大学カンボジア語講習会にも通ってみたが、あまりに複雑な言語なので、舌とシッポの両方を巻いて逃げ出した。

 初めから「タイの専門家」になる気はないから、片足はタイの外に出していたから、タイ語の勉強はいい加減だった。

 タイに詳しいライターになるのはいいが、タイのことしか知らないライターにならないようにいつもタイ学習にブレーキをかけて、別の世界の情報を仕入れる「アブ八チ取らず」のライターだった。