438話 冨田先生が残したもの 後編   ―活字中毒患者のアジア旅行

  

 先生からの手紙をもらってすぐに、本代と送料と手数料を合わせて3万円を送ると、すぐに重い段ボール箱が届いた。なかには、最後の1冊である『タイ日辞典』と、大阪外国語大学タイ語科学生用の自作の教科書2冊と、カセットテープが20本入っていた。
「テープは授業用に作ったものを私がダビングしたもので、市販はされていません」というメモがついていた。この教科書とテープを使って、しっかりとタイ語を勉強しなさいという意味だということはすぐにわかったが、怠け者の私は、いま現在に至るまで、まともにタイ語を勉強したことがない。
 『タイ日辞典』は、タイ語を学ぶ日本人のための辞書だった。その辞書が完成したので、次の段階に進んだ。日本語を学ぶタイ人のための『日本語辞典』を作る作業だ。先生は精力的に辞書作りにはげみ、いくつかの版ができるたびに送ってくださった。日本人である私にも、「日本語・タイ語辞書」として大いに役立った。
 先生と会って言葉を交わしたことは、じつはたった2回しかない。私がタイに長期滞在していたころも、いつも先生に近況報告の手紙を書いていたのだが、ある年、私の手紙に折り返して、「近々バンコクに行く予定があります。よろしければ、会いませんか?」とタイ旅行の日程がバンコクの私のもとに送られてきた。そのひと月後に、やっと会うことになった。
バンコクのホテルで西洋料理を食べながら、先生とタイの関わりの話をしてもらった。大阪外国語大学の前身となる大阪外国語学校で中国語を学んでいるときに、「同じような言語だから」と言うだけの理由で、タイ留学を勧められたのは、1942年。以後、4年間タイで過ごす。そのタイ生活の話が抱腹絶倒。元々神戸のお坊ちゃんで、小遣いをたっぷり持っている。タイで通訳をやるのでいい稼ぎになり、そのカネで「いつか辞書を」と、資料を買い集めたものの、敗戦で全財産を放棄して帰国といった話を漫談のように語り、笑っているうちに時間が過ぎていった。
「先生、いまのような話、ぜひ本にまとめてくれませんかねえ。交通手段が小舟の時代のバンコクや、人力車や路面電車の時代の話を、ぜひ書いてください」
 そういったが、先生は返事をしなかった。残り少ない時間を、コンピューターを使った辞書作りのために使おうと考えていたようだ。その年タイに来たのも、その方面の専門家と会うためだった。
 自分で書く時間がないなら、私が聞き書きしようかと思ったが、興味を示す編集者はいないので、企画はそのまま流れてしまった。今にして思えば、取材だけでもしておけばよかったと思うが、先生の方も相変わらずの大忙しで、出版されるあてもない本のために、まとまった時間を作っていただくのは申し訳ないという気持ちもあった。先生が住んでいる三重県まで通わないといけないというのも、取材に行くのをためらった理由のひとつでもある。
 『タイ日辞典』の第3版に当たる『タイ日大辞典』(日本タイクラブ発行)が出た97年に、先生の教え子である赤木攻さん(当時、大阪外国語大学教授)の案内で、三重県のご自宅に表敬訪問をした。少し前まで入院されていたようで、体調はあまりよくないと言いながら、ビールを飲んでいた。この機会にいろいろ聞きたいことがあったが、言葉がやや不自由で、本一冊分の聞き取り取材はもはや無理だと判断した。
そして、2000年10月、先生が亡くなったという知らせを受けたその日の夜、先生にいただいた手紙を思い出していた。何度も読んだので、文面を覚えている。
「辞書の校正に疲れたので、あなたのお気に入りのスナリー(タイの歌手)のテープを聞きながら、ひと休みしています。歌詞をじっくり聞いてみると、韻文の伝統をきちんと踏まえているのに感心しました。ちょっと訳してみましょうか。こんな感じの歌ですよ」
 もう、こういう手紙を書いてくれる人はいない。      (2001)
付記:上の文章(前編&後編)は、2001年2月発行の「アジア文庫から」に載せたものに、多少手を加えた。この号の編集後記に、私の文章を受けて、アジア文庫店主の大野信一さんはこう書いている。
「冨田竹二郎さんの『タイ日辞典』の初版が出たとき、2万8000円という定価だったため、恐る恐る仕入れたのを覚えています。ところが、まるで2800円の本のようなペースで売れていくのに驚き、あわてて追加注文しました。(中略)この辞書に出会ったタイ語学習者が、「他の言語ではなく)タイ語をやっていてよかった」という声もよく耳にします」
 こういう文を書いた大野さんも、もう冨田先生が住む世界に行ってしまった。