1888話 昔々のタイ語学習 その4

 

 1942年に、ふたりの日本人が交換留学生としてタイに渡り、4年間の研究生活をした。そのひとり河部利夫さんは帰国後、のちに東京外国語大学となる東京外事専門学校のシャム語科の助教授となる。桜田さんはその教え子だ。もうひとりの日本人留学生の冨田竹二郎先生(この人にだけは、先生と呼ぶ)は、大阪外事専門学校(のちの大阪外国語大学)で英語を学んだあと支那語科に編入していた。教授に「タイ語は中国語と同じようなものだから、お前が留学しろ」といわれて、まったくなじみのないタイ語を学ぶことになった。帰国後は母校で中国語とシャム語を教える。赤木攻(あかぎ・おさむ)さんが大阪外国語大学タイ語科に入学したのは、桜田さんが東外大に入学した15年後の1963年だった。

 1944年生まれの赤木さんに、桜田さんのタイ語との初めての出会い、「タイ語にタイ文字があるとは知らなかった」という話をした。

 「僕の時代だって、似たようなものですよ」。赤木さんがタイ語を学ぼうと考えたのは、欧米語ではない言葉を学びたかったからというだけで、特にタイ語を選んだ理由はないようだ。赤木さんとの会話の断片をつなぎ合わせて勝手に想像すると、第一志望は京都大学大阪大学で、大阪外国語大学は試験日が遅い二期校だから、滑り止めだったのではないかと、私は想像している。というのは、入学早々退学を決意し、再び受験勉強をしようと思ったというからだ。

 退学の理由は、「タイ語は、あまりにもややこしく(タイ文字がある)、あの発音はタイ以外の地で育った人間には決してマネまねなどできない。とてもじゃないが、この先4年間こんな言語の勉強なんか自分にはできないと思ったからだ」という。やめるなら早い方がいいと思い、指導教授の冨田先生に退学の意向を伝えた。この「苦情」は、私にもわかる。インドネシア語スワヒリ語スペイン語は、カタカナで耳に入ってくるが、初めてタイ語を聞くと、特に女の子がしゃべるタイ語は、小鳥のさえずりのように聞こえて、モヤかカスミに包まれたように感じるのだ。

 新入生から退学の希望を聞いた冨田先生は、「せめて、夏休みが終わるまで勉強してみなさい。退学は、それから考えればいい」と説得した。そのアドバイスに従い、退学はちょっと延期することにした。

 夏休みのことだ。1960年代の大阪で、偶然に近所でタイ人と出会った。旋盤かなにかの技術の勉強に来ているという。こちらのカタコトのタイ語は通じる。彼からタイ語を教えてもらい、こちらは日本語を教えるという相互学習をしていた。夏休み前までの数か月学んだだけのタイ語だが、言葉が通じて、会話が成り立つ喜びを感じた。

 それ以後、タイ語がおもしろくなり勉強すればよくできるようになり、卒業後は2年間タイに留学した。1960年代末のタイ留学時代の話もいろいろうかがった。興味深いのは、その当時はまだ1ドルが360円時代だから、日本円の力は弱く、「親が作ってくれたカネを使う私費留学だから、チュラロンコーン大学でもっとも貧しかったのは僕だと思うよ。服なんか、ほんの少ししか持っていなくて、ボロボロだったよ」。

 帰国後は母校でタイ語を教えるようになり、冨田先生とは同僚の教授になった。1999年から2003年まで大阪外国語大学の学長を務めた。日本の皇室とタイの王室の間の通訳もたびたび担当した。