言葉の本は好きだから、関係書はつねに注目している。言語学者黒田龍之助氏の本は、かなり読んでいるが不満はある。黒田氏は多作だから、私のアンテナに引っかかることが多く、ついつい買ってしまう。そして、いつもふたつの不満がある。ひとつ目の不満は、「世界の言語」というような話をしていながら、話の中心は自分が専門とするロシアとその周辺の言語の話ばかりで、それ以外の土地の言語に関しては、きわめてあっさり処理している。専門とする地域以外の言語の文法や、アラビア語やチベット語やクメール語(カンボジア語)などキリル文字やラテン文字以外の言語を取り上げて、「まず、文字を覚える苦労」を語るという文章はない。さまざまな言語の発音を取り上げることもない。
ふたつ目の不満は、ロシア語などいくつもの言語に関係するエッセイは多いが、それらの言葉を使う社会や、その地に住んでいる人たちの生活の話が出てこないことだ。
■語学の天才
だから、世界の言葉の話なら、高野秀行に書かせなさいと思っていたら、そのものずばりの本が出た。『語学の天才まで1億光年』(高野秀行、集英社インターナショナル:発行、集英社:発売、2022)だ。タイ語学習の話の次は、この本の読書メモという形で、言葉の話を書いていくことにする。
高野さんが思い浮かべる語学の天才とは、次のような人物だという。「涼しい顔でウイスキーのグラスを傾けながら初対面の外国人を相手に四つか五つの言語を駆使してジョークを飛ばすような人」だという。「おそらく私は“国際人”と語学の天才“を混同しているのであろう。しかも現実にはどちらもみたことがない」。
「語学の天才」と紹介しても、だれひとり否定しないだろうなと思われるのが、言語学・文化人類学の学者西江雅之さんだろう。幸せにも、その西江さんとテーブルをはさんで1時間以上話を聞いたことがある。ちなみに、そのとき私の隣りに座っていたのは天下のクラマエ師こと蔵前仁一さんである。西江さんの隣りに座っていたのは、オートバイ旅行で知られる加曾利隆さんだ。
そのときの西江さんの話の中に、「語学学習に王道なし」という話があった。著作にもその話があるのを覚えていた。私の想像だが、西江さんがいくつもの言語を習得しているのは「天才だから」か、「特別な学習法」を身につけているからだろうという世評に対して、「コツコツ学ぶしかないんです」と言いたかったのではないか。「天才」といわれてしまうと、「努力などせずにマスターした人」と思われるのが心外だったのではないか。
早稲田大学政経学部の学生だった時代、大学の図書館の開館から閉館まで外国語を独習するとともに、できる限り多くの外国語の授業を履修していたという。天才というのは、そういう努力ができる人ということで、努力せずに簡単に多言語の使い手になれる人という意味ではない。
いくつもの言語が頭に入っていて、混乱することはないのかと、西江さんに聞いたことがある。ドイツ語をしゃべっていて、いきなり中国語の単語が出てくることはないだろうが、スペインで生活していて、路上でポルトガル人と出会ってポルトガル語で話をしているときに、ポルトガル語とよく似たスペイン語の単語が混じってしまうことはないのかという質問に、「ありません」と言下。愚問だったようだ
西江さんと同じ時代に早稲田大学教育学部国語国文科で学んだいた星野龍夫さんは、在学時代にフランス語の言論大会で優勝したことがあるという。大学卒業後香港に渡り、日本語教師をやりつつ、いくつかの中国語を学んだ。その後フランスに留学し、民族学などを学ぶ。ラオスに移ってからは、フランス語教師などをやりつつ、ラオスの言葉であるラーオ語の教科書を英語で書き、研究を続け、タイ語やマレー語の小説を翻訳した。
タイ語に関して知りたいことがあって、ある日星野さんに電話したことがある。
「なに、タイ語? 忘れた。今ね、ベトナムの歴史の研究をしていて、ベトナム語と中国語とフランス語の資料を使って、フランス語で論文を書いているところだから、タイ語は消えているんだ。ホントだよ。この前、東京でタイ人に会ったんだけど、タイ語が出てこなくてさ、英語で話しちゃったよ」
星野さんは、必要に応じて、覚えた言語を取り出して使うらしい。