1897話 言葉は実におもしろい。地道に勉強する気はないけれど・・・ その8

 

大逆転

 高野さんの初めての旅は、大学生のときでインドだった。カルカッタで、パスポートとトラベラーズチェックと帰りの航空券をだまし取られたというエピソードが語られる。その事件が、大逆転の結末を迎えたという話が、『語学の天才まで1億光年』の33ページにある。日本領事館に高野さん宛の郵便物が届く。封筒に、彼のパスポートと帰りの航空券が入っていたというのだ。

 もしも、前川健一の読者で記憶力が良ければ、拙著『アジアの路上で溜息ひとつ』(講談社文庫、1994)で、カイロでの事件を書いた「銀行の天使 スリの仁義」と同じ展開だから、びっくりしたはずだ。私の場合はだまし取られたのではなく、満員バスのなかで貴重品袋をスラれたのだ。パスポート、トラベラーズ・チェック、帰りの航空券、多少の現金が貴重品袋に入っていた。そして、後日パスポートと帰りの航空券が、私が泊っているユースホステルに届けられたのだ。宿の人の話では、「ナイルの岸に落ちていた」といって届けた人がいたというだけで、その事情はまったくわからない。私の宿泊先を知っている人の犯行か?

テキスト

 高野さんがアフリカのリンガラ語を学ぼうと思った理由のひとつは、「先生も教材もない」から闘志が湧いてきたようだ。時代は、1980年代後半。リンガラ語のテキストはなかったかなあと調べたくなった。私が東アフリカに行こうかと考え始めた1980年代初め、スワヒリ語の教科書はあった。”Teach Yourself”という外国語独学シリーズがある。イギリスの出版社が出しているペーパーバックで、私は新宿紀伊国屋か銀座のイエナで買ったと思う。だから、高野さんがアフリカに行こうと考えていた1980年代後半に、リンガラ語のテキストがあったのだろうかと調べたくなった。国会図書館や版元のTeachYourself Booksのホームページで探してもわからない。どうやら、リンガラ語のテキストはやはり出ていなかったらしい。もう1歩進んで、東京外国語大学の図書館資料を検索したら、ロシア語によるテキストが見つかった。西江雅之さんは、ロシア語のテキストでスワヒリ語を学んだと言っていた。世界のさまざまな言語のテキストがロシア語で出版されていたのは、ソビエトの政策と深く関係がある。日本語のリンガラ語テキストは、天理教が伝道のために非売品で作っている(1965年)。政治と宗教と語学テキストという三題噺は、卒論のテーマになる。

リンガラ音楽

 57ページにリンガラ音楽の話が出てくる。1982年から83年に東アフリカを旅しようと思った時、街にどんな音楽が流れているのか大いに楽しみだった。その当時に知っていたアフリカ音楽は、ダラー・ブランド(のちのアブデューラ・イブラヒム)、ミリアム・マケバやヒュー・マサケラ(3人とも南アフリカ出身)やマヌ・ディバンゴ(カメルーン)や、アフリカ出身者たちがイギリスで結成したバンド「オシビサ」などごくわずかで、東アフリカの音楽はまったく知らなかった。ナイロビの街で流れていたリンガラ・ポップは、高音のギターがキンキンと鳴り、男のファルセットのボーカルが入って、まったく私好みではない。何も知らないくせに「音楽もファッションも、やはり西アフリカなのかなあ」と思った。帰国すると、ナイジェリアのキング・サニー・アデの歌声が、日本のラジオからも流れていた(1983年)。サザンオールスターズセネガルのバンド「トゥレ・クンダ」と一緒にライブをやったのは1985年だった。アフリカ音楽に注目すると、圧倒的に西アフリカの音楽が素晴らしく、楽しい。Mory KanteのYeke Yekeのヒットは1987年だった。1990年代からアフリカ音楽のCDは200枚以上買ったが、リンガラ音楽は1枚もないというのが、私の趣味だ。だからどうということではない。私の音楽の好みの話だ。