1909話 言葉は実におもしろい。地道に勉強する気はないけれど・・・ その20

 

〇国語

 言葉の話をするときに気にかけている語が、「〇国語」という表現だ。例えば、「あの人の母国語はフランス語だから」といった言い方だ。フランス国籍を持っている人は皆フランス語を「母国語」としているという誤解だ。言葉は国家と同一で、「○○国の人は○○語をしゃべる」という思い込みのある人が少なくない。まずは、言葉を国家から切り離して考えるために、「母国語」という言い方をやめて、「母語」としたほうがいい。

 幼少期に、家族や近所の人たちが話しているのを耳にして、自然に覚えた言葉を母語という。国籍は韓国だが、日本で生まれて育った在日韓国人三世で、家庭でも近所でも学校でも日本語だけで育った人は、「母国語は韓国語」ではあるが、韓国語をまったく理解しない人はいくらでもいる。パレスチナ人の国籍はイスラエルでも、ヘブライ語が「母国語」というわけではない。クルド語で育った者の母国語は? 「クルド」国はないのだから、母国語という語を使うのは変だというわけで、私は「母国語」ではなく「母語」を使うようにしている。それが民族や社会を語るものの常識となっていると思う。

 『語学の天才まで1億光年』で高野さんが意識的に避けている語が、「外国語」だと思う。この語はまったく出てこないわけではないが、「私は10カ国語はできる」といった表現はしていないと思う。ひとりのマレーシア人がいる。インド系で、タミル語ヒンディー語ができる。もちろんマレー語もできる。英語もできる。この人を「4カ国語ができる」といっていいのか。中国系マレーシア人なら、マレー語のほか、中国語(北京語)のほか、福建語や客家語や広東語ができるという人は、決して珍しくない。英語もできるとなれば、「6カ国語ができる」となるか?

 日本人だと、「あの人は、何カ国語できるんだろう?」という疑問を口にする人がいるが、ひとつのことばにひとつの国家と考えるのはやはりまずい。

 しかし、だ。わたしもしかたなく「外国語」という語を使っている。「外国の言語」とか「外国のことば」などと言い換えた方がいいのだろうが、まどろっこしくて「外国語」のまま使ってしまっている。

 日本や台湾の「国語」という言い方も、好きではない。日本の場合、「国語」と「日本語」は意味が違う。日本人が学ぶ言語が「国語」であって、外国人が学ぶ場合は「日本語」と呼ぶことにしているらしいが、全部「日本語」でいいだろう。外国語に翻訳すれば、「国語教師」だって、「日本語教師」になるのだから。

 台湾でも、北京語をもとにした中国語を「国語」(台湾の正しい表記なら、國語)と呼ぶ。台湾を旅していると、よく聞かれる質問がある。「講国語嗎?」あるいは「你會講国語嗎?」とは、「国語は話せますか?」という意味なのだが、「あなたにとって国語かもしれないが、私の『国語』じゃない」というツッコミがいつも私の頭をよぎる。その指摘を口にするのは大人げないし、それ以上にそんな中国語はしゃべれないから、「一點」(ちょっと)と言ってごまかす。本当は、ちょっとどころか、ほとんどしゃべれないんだけどね。

 そういえば、いくつもの言語で、「ちょっと」を意味する表現を覚えたなあ。un poco(スペイン語)とか、sedikit(インドネシア語)とかね。