1914話 言葉は実におもしろい。地道に勉強する気はないけれど・・・ その25(最終回)

 

言語学習は必要か

 「同僚に、毎年1言語を選んで勉強するっていう人がいてね」と友人が言った。「今年年はシンハラ語だった。来年は、ヨーロッパの少数語にしようかな」という具合に、1年1言語の学習を趣味にしているという。こういう言語マニアは、それほど珍しいわけでもなさそうだ。

 多言語学習は、全国ラーメン屋食べ歩きと同じような趣味だから、他人がとやかく言うタグイのものではなく、「どうぞお好きに」というだけだ。

 日本や世界のラーメンを食べ歩きても、ナポリタンを食べ歩いても、高い評価を受けないが、「8つの外国語をマスター」などというと、偉業ととらえられるのは、外国語ができると「学業優秀」と判断されるからだ。

 「国際化社会で生きるために、多言語学習を」と考える人もいる。小学校で英語や中国語や韓国語などを教えるのをまったく無駄だとは思わないが、積極的に支持はしない。重要なことは、外国の単語やあいさつことばをいくつか覚えることではなく、「世界にはさまざまなことばがある」という基本がわかればそれでいい。簡単な外国語など、今はスマホの自動翻訳でかなり間に合う(ようだ。スマホを持っていないからよく知らないが・・・)。

 だから、重要なことは多言語学習ではなく、まずは、「英語は外国語だが、外国語は英語だけじゃない」ということをよく理解することだ。

 英語は旅行の「道具」として重要だから、話せるようになった方がいいが、英語教師がよく使いたがる「ネイティブは、こう発音する、こう言う」という注意はあまり気にしなくていい。私がいままで50年間ほど旅行をしてきて、仮に英語で1000時間ほど会話したとして、いわゆる「ネイティブ」(英語を母語としている人)と言葉を交わしたのは、その10分の1以下、つまり100時間もないだろう。私はアメリカには行ったことはある。イギリスにちょっと寄っただけで、それ以外の英語圏を知らない。だから、私の話し相手は、私と同じように学校で学んだ英語にそれ以降生活で覚えた人が多い。「英語は、アメリカ人と話すためだけのことばじゃない」と、私はよくわかっている。

 そんなこと、あたりまえじゃないか、いまさら偉そうに言うなよと思う人はいるだろうが、じつはそうでもない。ある日本語が英語に翻訳できないとわかると、その表現が「日本独特、日本語の特徴」と考える人が少なくないのだ。そういうことを言いたがる人は、たいてい英語もよく知らないのだから、ほかの言語ではどうかなどと考えたことがないのだろう。

 基本的に、ある言語を別の言語に正確に翻訳することは不可能だというのは、多分常識だろう。「川」でも「水」でも「家」でも、「朝食」でも、一応はさまざまな言語に翻訳できるのだが、聞き手あるいは読者がイメージするものは、まるで違う可能性もある。翻訳とは、そういうものだ。その翻訳のずれが許せないという人たちが、本のタイトルを原題のままカタカナ表記したがる。あの人たちですよ。

 テレビでやってほしいなと思う番組がある。深夜の15分か30分の枠で、「世界にはいろんなことばがある」という内容だ。かつて、フジテレビの深夜に「地理B」という、世界の様々な国の紹介をやるおもしろい番組があった。「タモリ倶楽部」のような構成でもいい。「今週はチェロキー語です」などといって始まるおもしろい番組だ。ことばを学ぶ番組ではなく、「へえ、そんなことばがあるんだ」という感想で終わっていい。

 旅と外国語の話を長々と書いてきたが、私が重要だと考えるのは外国語を数多く学ぶことではなく、旅先でおしゃべりしてみようという好奇心だ。同行者の日本人とばかりしゃべっていては、外国語からはいつまでも遠いままだ。もちろん、それは旅の質とは関係なく、旅行者の満足度とも関係ない。あくまで、旅と言葉の話だ。