2031話 読書ノート その1

 

 本を読んで付箋を貼った部分の話をする。その本の内容などは、ネット情報で各自調べていただきたい。

 『「その他の外国文学」の翻訳者』白水社編集部編、白水社、2022)は、翻訳者たちが書いた文章を集めたものだと思って買ったのだが、聞き書きだった。WEBマガジンの連載が元になっているから、そういう構成にしたのだろう。

 ここではタイ語文学について語る福冨歩氏の話に関連したことを書く。外国の文学を翻訳する際、訳注をどうするかという問題がある。この話題は翻訳に関する本で何度も語られてきたから、まとめるとこういうことになる。

 注釈をつけたい内容を、翻訳の文章に紛れ込ませる。

 (  )内に入れる。

 脚注か、欄外に小さな文字で入れる。

 ・巻末などにまとめて入れる。

 タイ文学の章でこの話をしているのは、かつてトヨタ財団が援助をして東南アジア書籍の翻訳書を数多く出版したからで、文学のほかエッセイや学術論文もあった。この「隣人をよく知ろう」プロジェクトの初期、1980年代に出版された本は、文学研究者の手によるものではなく、地域研究者などが担当したもので、「隣人をよく知ろう」というプロジェクトの目的にかなったものだった。文学鑑賞が目的ではなく、その地に住む人々の歴史や生活の姿を知ることが目的だった。このプロジェクトのおかげで、ふだん文学を読まない私でも、アジアの文学を100冊ほどは読むことになった。

 そのなかで、とりわけタイの本に訳注が多かった。なかでも冨田竹二郎先生の注は数が多く、仔細で内容も多岐にわたっていた。タイをまったく知らない日本人に、タイ人の生活習慣などを紹介したいという翻訳者の熱意で、それはもうすばらしいものだった。訳注で紹介してくれた食べ物を、タイに行ったときに口にして、「ああ、これか」と確認する。それも旅の喜びだった。

 しかし、一部の文学研究者からは、「注が目障りで気分がそがれる」という批判もあった。そして、文学研究者と文学愛好者が翻訳の中心の時代になり、私はアジアの翻訳書を手に取らなくなった。村上春樹のような小説を読む気はない。「訳注などないほうがいい」と主張する福冨説を、文学嫌いな私は受け入れない。小説に登場する地名がソウルでもミラノでもシンガポールでも内容にいっさい影響を与えない、人名などどうでもいいという小説を、私は読む気がしないということだ。

 『幻の麺料理』魚柄仁之助青弓社、2023)は、明治以降の料理書では外国由来の麺がどのような料理で紹介されていたかという調査報告だ。たとえば、「婦人之友」(1937年12月号)に、トマトピューレーやケチャップなどを使った「マカロニ・ナポリタン」という料理が写真と共に紹介されている。写真はスパゲティーで、当時「マカロニ」は今の「パスタ」の意味で、スパゲティも「マカロニ」と呼ばれていたことは、このアジア雑語林ですでに紹介しているとおりだ。「婦人之友」の記事で、「スパゲティ―・ナポリタンは、横浜のグランドホテルで戦後誕生した」という通説は誤りであると証明できる。

 料理史の話で、いつもイラつかせる記述がある。例えば、「江戸時代の料理書に豆腐のこういう料理が載っている」ということから、「江戸時代には、すでにこういう料理が食べられていた」と結論をもっていく論法だ。その料理が著者の創作で、空想で終わったものかもしれないのだから、「料理書に載っている料理がすでに普及している」という証明にはならないのだ。だから、上に書いた「マカロニ・ナポリタン」という料理も、女性雑誌に作り方と写真が載っているという紹介だけで、「すでによく食べられていた」とは書いていない。外国料理を紹介する本でも、その料理が日本人ライターが日本の台所で作れるようにアレンジしたものであれば、その料理を「現地の料理そのもの」と考えると誤解することがあるということだ。私が何度も書いているこういうことを、魚柄氏もこの本で書いている。