1728話 食文化本の豊穣 上

 『中国料理の世界史』が出た2021年に、比較的高額の食文化本が多く出た。特になにかのきっかけはないだろうが、出版界ではいわゆる「お料理本」が多いなか、食文化を視野に入れた本が多く出た。

 その最高峰に『味の台湾』(焦桐、川浩二訳、みすず書房、2021年)がある。著者の焦桐(ジアオ・トン)は、1956年生まれの台湾人。詩人、編集者。翻訳をした川浩二(かわ・こうじ)は、1976年生まれの立教大学外国語教育研究センター講師。専門は、中国近世の文学。

 この本の内容を簡単に説明すれば、著者の食べ歩きの思い出話なのであるが、日本にも多くある「小説家の食味エッセイ」とはだいぶ違う。高級料理店の山海の珍味は出てこない。登場する料理の半分くらいは私でも知っているくらい、ごく普通にある食べ物で、高額な料理はない。その辺の屋台や食堂にある料理が登場する。知らない料理もネットで検索すれば、すぐにその姿がわかる。この本の性格を強くしているのは、仕事仲間でもあった亡き妻との思い出の料理がいくつもでてくることで、だから「うまい、絶品!」と評するような食レポ本ではないことだ。

 この本が出版された2021年10月、神田東京堂でキャンペーンをやっていて、版画風のイラストが気に入って、すぐさま買った。翻訳なのに、翻訳という気がしない。日本語の文章が体に流れ込んで来る。本はたちまち付箋だらけになった。付箋は「なんだ、これ! ウソだろ」という意味の付箋もあり、『中国料理の世界史』はそういう付箋ばかりだったが、『味の台湾』の場合は、「へー、そうだったのか」という新事実を知った感動の付箋だった。

 例えば、「肉臊飯」(バーソープン)の項がある。この名の料理を知らない。本文を読んでいくと、これは台湾南部の言い方で、北部では滷肉飯(ルーローファン)と呼んでいる料理だという。どこかで聞いたことのある名だ。さらに読み進めると、「魯肉飯」(ルーロウファン)という看板が多いが、これは「滷」を誤って「魯」にしたものだという。私も、おおくの日本人も、「魯肉飯」(ルーロウファン)としてよく知っている料理だ。簡単にいえば、みじん切りの豚肉の煮込みをご飯にかけたどんぶり飯で、チマキの中のご飯である油飯と並んで、私が大好きな料理で、台湾のどこででも食べられる安い料理だ。それを、著者はこう書く。

 「多くの人々が、やっと歯が生え出したころから食べ始め、歯がすっかり入れ歯になるまで、肉臊飯を好んで飽きることがない」。

 こういう文章は、「取材で台湾に行った」という程度の付き合いでは書けない。台湾人が書いてくれて、ありがたいと思える本だ。

 昨年に暮れに、立教大学の桝谷教授が「『味の台湾』の翻訳者が語る会を開くので、来ませんか」と誘ってくれてたので、翻訳者と直接ことばを交わす機会を得た。この本は、いわゆる中国語(台湾で「国語」と呼ぶ)のほか、南部方言や台湾語や客語など多言語が出てきて、それぞれにフリガナを振らないといけない。しかも、その料理を知らない読者のために、わかりやすく簡単に説明を補わないといけない。食べ物が出てくる小説ではなく、全編食べ物の本だから、翻訳上の苦労は多い。川さんは、そんな苦労などみじんも見せず、この本がいかに魅力的かを語った。

 10月に出た本が12月に増刷が決まったというから、内容と翻訳のすばらしさが伝わったのだろう。

 同じく川さんが翻訳した『中国くいしんぼう辞典』(崔岱遠、川浩二訳、みすず書房、2019年)は、舞台が中国だからというわけではないだろうが、付箋は1枚しか貼っていない。内容の記憶も消えているのだが、増刷を続けているようだ。「出来の悪い本」というわけではないが印象が薄いのは、私の身近な料理があまりないからかもしれない。私は中国に行ったことがないから、「ああ、あの料理ね」という記憶の反芻がないのだ。