2030話 ウソはうまくつけ

 

 あれはたぶん韓国ドラマ「ミス・ハンムラビ」(2018)だったと思うが、ソウルの歩道で、主人公が横断歩道を渡ろうと立ち止まると、その背後にカフェらしき店が映り、看板に“VIVANT”とあったような気がしたが、第何話だったかも覚えていないから、確認はしていない。見間違いの可能性も高い。

 TBSドラマ「VIVANT」は、初回分を録画しておこうと思ったが、ミスで録画できなかった。テレビの録画画面を出し、「録画する」で「決定」を押さずに、「戻す」ボタンを押してしまったのだろう。初回を見なかったから、「まあ、それでいいや」と2回目以降も見なかった。ところが、正月に全話再放送があったから一応録画しておいた。先日、3日がかりで録画を見た。で、私の感想は、ウソはうまくつけだ。

 わたしが小説を読まない理由は、サスペンスなどの場合だが、つじつま合わせをやるからだ。テレビドラマも、うまく進行させるために、「偶然にも」、「たまたま」を多用するからだ。「偶然にも立ち話を聞いた」、「トイレの個室で内緒話を耳にした」、「デスクの上に置いてあったメモで、偶然極秘事項を見た」、登場人物が駅などで「偶然にも」よく出会うのだ。偶然から始まるドラマならいいが、毎回「偶然にも」が繰り返されるとうんざりする。これをご都合主義という。ドラマに文句を言うと、「ドラマは作り物なんだから、うだうだ理屈をいわないで、頭を空っぽにして楽しめばいいじゃない」などと言う人がいる。そういう人はどんなストーリーでも楽しめるのだから、それでいいのだ。私は「どうせウソの話なら、うまくウソをついてくれ」と言いたい。細部までうまくウソをついたら、ドラマもおもしろくなるというのが私の考えだ。細部がダメだと大枠もダメということがあると同時に、細部を工夫しても大枠がダメということもある。

 ドラマ「VIVANT」の場合は、「偶然」と、「不可思議」と「なんとたまたま」、「どんな情報でも簡単に手に入る」が多すぎる。

 架空の国バルカが舞台のドラマ。

 まずは、第1話冒頭のシーン。背広姿の日本人が砂漠をたったひとりで歩いている。乗ったタクシーの運転手に逃げられたのだが、なぜ運転手が逃げたのかその理由が説明されない。カネ目当てなら、客を殺して、所持金を奪えばいいのだが、客を置き去りにして逃げた。のちに、その客は飛び切り優秀な工作員だと明かされるのだが、それならまんまと置き去りにされた不始末が不可解だ。砂漠で死にそうになっているところを偶然救われて、家に運ばれると、そこには偶然医者がいて、その医者は偶然日本人で・・・というふうに、偶然の大パレードだ。

 モンゴル語でしゃべっていた「BEKKAN」から「別班」を連想するなんて、松本清張の小説にありがちなこじつけ臭い。こういうのは、まだ「推理小説」ということばが全盛だった時代の推理ネタではないか。

 このドラマを通して日本語の会話が多い。日本人の会話だから日本語を使うというのはもちろんわかるが、日本人と同じレベルの日本語をしゃべるバルカ人が何人かいる。「日本人俳優だから」というのは理屈にならない。バルカ人が日本人とまったく同じ日本語をしゃべるなら、その謎を解かないといけない。

 主人公たちは、バルカ国の首都クーダンから警察の追手を逃れるために、死の沙漠と呼ばれる地域を抜けてモンゴルに逃れようと生死をかけて決行する。ラクダが弱り、水がなくなり(大量に水を持っていたかどうか怪しいが)、苦しみながら、ついにモンゴルに抜けると、そこにバルカ警察の警官隊が待ち受けていたというシーン。ナンカ、オカシクナイカ

 生きて横断できるかどうかわからない沙漠をやっと横断して国境にたどり着く正確な日時と場所といった情報を、バルカ警察はどうやって手に入れたのか。「GPSを使った」といった手段は明かしていなかったと思う。5万歩譲って、情報を得ていたとしても、警察の大集団は、どうやって死の沙漠を横断して来たのか。モンゴルに勝手に入って行動することはできない。事情説明は一切なし。リアリティーのないウソは、興味を失う。そういうシーンを書き出すときりがない。

 家族の物語なんか出てきて、うんざりだった。それにつけてもアメリカ映画「ボーンシリーズ」(マット・デイモン)がおもしろいのは、偶然を多用する謎解きがないからだ。緊張感が持続するというなら、アメリカドラマ「24」の方がはるかに上だ。