1065話 イタリアの散歩者 第21話

 ベネチアへ その5

 ベネチア行きの列車が出るのは昼だから、午前中は何をして遊ぼうかと考えながら朝ごはんを食べていた。コーヒーを入れてくれたリビアさんと、「ナポリ滞在を切り上げてベネチアに行くことになった理由は、装飾だらけの重い建築にうんざりしたからだ」という話をしていたら、話に乗ってきた。彼女は大学で建築を学び、今は小さな建築事務所の経営者でもある。午前中はB&Bのオーナーの仕事をして、午後は建築事務所の仕事を、姉妹で助け合いながらやっている。だから、建築の話となれば、黙っていられない。私も多少は建築史の勉強をしたから、「イタリアのゴタゴタ建築よりは、アール・ヌーボーや・アールデコの方がずっといい」などと言い、「だけどモダン様式はつまらん」と言うと、リビアさんは「こういうのはどうか?」と、スマホで20世紀の有名建築の写真を取り出し、私の意見を聞き、イタリアでもいろいろ仕事をしている安藤忠雄の話を彼女の方から始め、私は「光の教会」(茨木春日丘教会)の画像をしめして・・・と、スマホを挟んで遊んだ。「ところで、この建物は・・」と今滞在している石の建物の話になり、「重い建物だけど、トラックやバスが通ると揺れるんだよね。基礎は大丈夫かい?」と不安を口にすれば、「多分、200年以上前に建てたと思うけど、今までのところは大丈夫」といったやりとりをしているうちに昼近くになった。結局、出発時刻ギリギリまで建築の話をし、ナポリ駅でサンドイッチを買って鉄道に乗り込んだ。
 考えてみれば、1975年に初めてヨーロッパに行き、「もう二度と行かない」と決心させたのも建築だった。ヨーロッパの石の建物の重圧にめげたのだ。石そのものの重みと歴史の重みと、おどろおどろしいキリスト教的装飾に、アジアの気楽な旅しか知らない駆け出しの旅行者は、押し殺されたのだ。三畳一間で暮らしている貧乏青年が、カネを貯めて帝国ホテルでナイフとフォークで食事をしている心苦しさに例えれば、少しはわかってもらえるだろうか。
 海の上に建設された線路を走り、終着駅のベネチアのサンタ・ルチーア駅に着いた。ベネチアが海岸沿いの街だと思っていたのは、それほど昔のことではない。島だとわかってからは、島に鉄道で行くということが理解できなかった。調べてみれば、半島と島が鉄道で結ばれたのは1846年だというから、日本は江戸時代だ。浅瀬の湾内に杭を打ち、線路を建設したのだ。地図で確認すれば、海上部分の線路は8キロほどだから、10分ほどで通過してしまう。春夏秋冬、朝昼夕、晴天曇天雨天、車窓から見える海面は、さまざまな顔を見せる。ここが、交響楽ベネチアの序曲である。
島の都市ベネチアに鉄道で到着するということから、この街はすでに演劇的だ。駅を出たら、そこはラッシュアワーのような混雑だった。駅を出たら、右か左かに行くしかないから、人の流れが拡散しないのだ。もう暗くなっているからか、道路の人出は花火大会に行く人の波のようだった。
 宿は駅から歩いて5分ほどのところにあった。私が予約したホテルがなぜ安いのか、わかった。安い理由はいくつかある。まず、いくつもの安ホテルのマネージメントを1か所でやっていることだ。それを知らなかったのでまごついた。ホテルとは別の場所にチェックイン事務所がある。そこで手続きをしてカネを払うと、自分が泊まることになるホテルの入口のカギと部屋のカギを渡される。荷物を持って通りを歩いて、目的のホテルに行く。その宿には、客しかいない。掃除だけはしてくれるアパートのようなものだから、人件費が徹底的に安い。宿代が安い第2の理由は、電話でクレジットカードの番号を聞いたのに、現金しか受け付けないのだ。民宿でもないのに、これは非常に珍しい。カードなら記録が残るが、現金決済なら「宿泊者はいなかった」ことにできる。つまり、簡単に脱税できる。領収書を出さなかったから、私の推察は当たっているだろう。そして、私の部屋がベネチアにしては安かった第3の理由は、4階の上の屋根裏部屋だったからだ。5階まで階段を上らないといけない。エレベーターはない。だから、安かったのだが、不満は何もない。荷物は8キロ弱だ。これが25キロの荷物を持った旅行者なら、きっと泣く。
 ベネチアのもっともいいところは、陸上の乗り物がいっさい禁止されていることだ。自動車はもちろん、自転車も子供用のものがちょっとあるだけだ。陸地から船で運んできた荷物はリヤカーに積み替えられて、人力で運ぶ。大金持ちはホテル近くの船着き場まではハイヤーにあたる小舟で行くことはできるが、陸に上がれば、貧乏人の私と同じ境遇になる。歩くしかないのだ。ここには、ロールスロイスマイバッハもない。大富豪も地上を移動するなら、私と同じようにテクテクと歩くしかないのだ。


 右の建物が、サンタ・ルチア駅。その前の船が、水上バス。乗船券1000円は、ぼったくりだ。


 宿に荷物を置いて、夕食を食べに街へ出る。運河のこういう紫は、私には下品なラブホテルにしか見えないのだが、イタリアではどうなんだろう。


 翌朝、屋根裏部屋の我が部屋から、外を見る。外が見える窓がある部屋は、私の基準では上々に入る。早朝、鳥のさえずりが聞こえた。『イタリア歩けば…』(林丈二)によれば、これはクロウタドリ(ブラックバード)らしい。