さて、橋の話に戻るか。
十数年前までは、中華街は眠り続ける街で、戦前の風景のままだったのだが、地下鉄工事に関連して、景色が大きく変わっていった。中華街の建物が汚いままだったのは、地下鉄駅などの関連工事が計画されていたから建物のリフォームや建て直しをしなかったのだろう。楽宮旅社もジュライホテルも、建物は50年前のまま残っているが、よく通っていたお粥屋周辺はきれいさっぱり消えた。地下鉄の新駅がそこにできたからだ。
バンコク中央駅前を走るラマ4世通りは、バンコクの歴史ではかなり古い大通りで、王宮や中華街などがある旧市街と、シーロムなど新市街を貫いて走り、旧市街と新市街をつなぐ橋のひとつが、ここチャルン・サワット橋だ。ちなみに、と雑談をはさむ。ウィキペディアでは、ラマ4世通りはバンコク中央駅前から東に延びる大通りだと説明しているが、ラマ4世通りは橋を渡ってもその名は変わらず、ミットラパン通りとの交差点でチャルンクルン通りと名を変える。ここで右折してミットラパン通りに入ると、ジュライホテルがあったロータリーに出る。
チャルン・サワット橋は、文化的には旧市街と新市街をつなぐ重要な橋なのだが、バンコクのほかの橋と同様にコンクリートのつまらない橋だった。ファランポーン駅はすでに業務を終え廃駅となり建物だけが残っているというところまでは知っているが、今グーグルマップで元駅周辺を見ると、ここで話題にしている橋は記憶と違い、2本ある。ラマ4世通りは上下に車線が分かれ、それぞれの車線に橋ができている。私が知っている橋の北に、もう1本の橋ができている。しばらくタイに行っていないと、こういう変化があるのだ。
私の話は、まだ橋が1本だったその昔のことで、橋のたもとで目撃した出来事を文章にしたことがある。
かつて、橋のたもとの中華街側には市場があり、その対岸の空き地には細い枝を柱にして屋根をかけたかき氷屋があった。客用の長椅子は、子供なら3人は座れる長さだが、私が食べているときにほかに客はいなかった。かき氷機はない。この屋台のかき氷製造道具は、大工が使うカンナを裏返したものだ。刃の上に氷を乗せ、華道の剣山のようなもので氷を押さえて、かき氷を作る。そのころでも、もちろん手動式かき氷機はあったが、この店のように路上の掘っ立て小屋のような店ではカンナ型が普通だった。
かき氷を食べていたある日の午後、運河の中華街側の通路を走る人が見えた。タイ人が走っているのだから、よほどの事情があるらしい。なにか叫んでいる。人が集まってくる。私も野次馬となって、運河沿いの道に出た。
若い男が、上半身裸になった。周りにいる男たちが、若い男のベルトや足首やズボンをつかむ。若い男の体は一度宙に浮き、その右手が運河の中に入って行った。何かの合図らしい声で、男の体が持ち上げられて、右手に何かをつかんでいるのがわかった。それが長い髪の人間だとすぐにわかった。女の死体だ。その死者にとって幸運にも、腰布は乱れることなく、そのまま持ちあげられて、通路に寝かされた。すぐに新聞紙を持ってきた人がいて、死者の姿が覆われた。それがチャルン・サワット(繁栄)橋のたもとで見た事件だった。
その夜、日記にこの出来事を書いたから、その日が1979年3月だということがわかる。