1983話 橋を渡る その6

 バンコク郊外にムアン・ボーラン(直訳すれば「昔の街」)という施設がある。今、ネットの画像を見ると、広大な園内を自転車、ゴルフカート、トラムなどで移動しながら観光できるようだが、私が初めてそこに行った80年代は、施設もまだそれほど多くなく、移動手段は自分のクルマか、徒歩だった。炎天下の下、広大な敷地をふらふら歩くのはけっこうな運動で、そう言えばあのころはまだペットボトル入りの水など売っていなかったし、売店もほとんどなかったと思う。

 昔のタイを模した街に昔風の橋がいくつもかかっていたが、記憶にはない。とりたてて、どうこういう橋ではない。

 ムアン・ボーランに飽きて、午後は周辺をあてどなく散歩した。とくに目的はない。そのころ、東南アジアの食文化やタイの雑多な事柄を集めた本を書きたいと思っていて、やみくもに歩いていた時代だ。

 運河の向こうに木造の田舎の家が見え、その前で女性が鍋の米を洗っているのが見えた。タイの米の炊き方は、知識としては知っている。今は家庭では電気炊飯器を使う。大量の飯を炊く食堂や屋台では、米をしばらく煮て、ゆで汁を捨てて少し蒸し焼きにするという行程は見ていて知っているが、一連の作業工程を写真に撮ったことがない。

 よし、撮影させてもらおうとは思ったが、20メートルほど先のその家と、私が立っている道路の間には運河がある。橋は、あることはあるが・・・という橋なのだ。

 竹を切ってX字にして、運河に突き刺す。Xの交差する部分に竹2本を縛りつけ、橋の歩く部分にする。一応、Xの右部分に手すりが取り付けてあるが、水上3メートル近くある。竹は、滑りやすい。我が肩には、カメラバッグがある。水に落ちても足は立つようだが、カメラが水に濡れたら大損害だが、夕日を浴びて米を炊くといういい風景なのだ。意を決して、竹の橋に足を乗せた。竹が1本ではなく、2本あることに感謝しよう。濡れていないことに、感謝しよう。乾季で運河の水が少ないことに感謝しよう。竹2本の橋をこわごわとおろおろと、へっぴり腰でやっと渡った。渡り終えたとき、帰りもまたこの橋を渡るんだなとは思ったが、先の心配をしてもしょうがない。

 家の前に着いた。撮影の許可を求めた。微笑み、うなづいてくれた。若い女性だが、娘なのか妻なのか。

 洗った米を鍋に入れ、茹でているところだった。米がアルデンテくらいにゆであがったら、ゆで汁を捨てる。コメをひと粒指にのせ、つぶしてなかに芯がまだ少し残っていればいのだから、スパゲティをゆでるのに似ている。しっかり水分を捨てたら、ふたに棒をさして鍋を傾け、さらに水を切り、薪の燃えさしで10分ほど蒸し焼きにする。これで、出来上がり。タイの「炊き干し法」の行程を撮影できた。

 その時の写真は、『東南アジアの日常茶飯』(弘文堂、1988年)の、162~163ページに載せた。

 タイの米の炊き方の写真の上に、マレーシアの写真が載っている。知り合いが経営している食堂で撮影させてもらった写真だ。撮影していたその時刻の日本で、父が死んだと知ったのは、だいぶたって帰国してからだ。「大事な時には、いつもいないんだから」と母に言われた。そのとうりの親不孝者だ。

『東南アジアの日常茶飯』から。下の段の6枚が本文にあるバンコクの炊飯工程。右上の3枚がクアラルンプール。