1984話 橋を渡る その7

 

 国境の橋を渡るといえば、陸路でシンガポールに入るなら橋を渡るのは当たり前で、さしておもしろくない。アジアで、国境の橋を渡る体験を思い出すと、まずタイとマレーシアの間の国境を思い出す。ガイドブックなのではほとんど紹介されていない国境をいくつか越えた。タイに暮らしていて、ビザの書き換えが必要になると、いったん国外に出て観光ビザを取り、再びタイに入国するということを繰り返していた。まだ、ラオスカンボジアを自由に旅行できない時代は、マレーシアへ出るのがいちばん安く、手軽だった。

 毎年タイからマレーシアに行くから、同じ国境を超えるのはおもしろくない。地図を見て、両国を結ぶ道があれば出入国ができるだろうという予測で、出かけていた。国境の名はほとんど忘れたが、マレーシアからタイ南部ベートンに至る国境は覚えているが、橋はなかった。東海岸寄りの小さな街にある小さな川が国境で、橋を渡ってタイに入った。しかし、橋の両側には家があり、小さな川など、クロールで二かきか三かきすれば対岸に着いてしまうほどの狭さだから、「国境の川」といったイメージはない。

 あれはタイ北部タチレクだったと思う。当時のビルマは外貨稼ぎのために、国境を少し開き、外国人に昼間の滞在を許した。90年代のいつかだ。国境の橋を渡った記憶はあるが、特に思い出はない。タチレクはよく覚えている。ビルマの宝石が持ち込まれ、街の路上で売買されていた。歩道に机を出し、その上に宝石を広げている。その数、おそらく数十。歩道が宝石だらけなのだ。それでも強盗がいないということが、逆に恐ろしい。強盗よりも恐ろしい組織が見張っているということだ。

 ラオスとの国境の橋はバスで渡った。それだけのことだ。

 アジアで、橋を渡った思い出と言えばと、記憶を手繰り寄せると、マカオが浮かぶ。

 初めてマカオに行ったのはまだポルトガル領の時代の1979年だった。今では信じられないだろうが、その頃のマカオは眠くなるような静かな街で、予想していたとおりではあったが、すぐに退屈してしまった。そこで、退屈しのぎに目の前に見える橋を渡ってみることにした。その頃、橋を見ると歩いて渡りたくなるヘキがあった。今、マカオの画像をネットで見ると、必ず出てくる大きな橋ではない。いくら私でも、あんな巨大な橋を歩いて渡ろうなどとは考えない。あの巨大橋は新しいものらしい。私が渡った橋はどんな姿だったのかなど気になって、マカオ橋事情を調べてみた。

 マカオ半島タイパ島を結ぶもっとも古い橋は嘉楽庇総督大橋(Governor Nobre de Carvalho Bridge。カルバーリョ総督大橋)。1974年完成。全長約2700メートル。「歩行可」と書いてある。通称オールド・ブリッジ。その次に古い橋は、1994年に開通した澳門友誼大橋(Bridge of Friendship)だから、私が歩いたのはオールドブリッジの方だ。

 2700メートルもあると今知ったのだが、たしかに長かった。通行する自動車はそれほど多くない。バスが走っているから、帰りはバスにしようと思った。40分ほど歩いて着いたタイパ島は、ポルトガル風の家がある漁村で、雑誌の編集者なら小特集したくなるだろうと思った。タイパ島の南のコロアネ島にも行ったのだが、「ここまで歩いてきたのだから、最後まで歩こう」と思ったか、疲れ果ててバスで渡ったのかという記憶がない。私に、海を見ながら本と酒の日々という趣味があれば、悪くない避難地だ。島の漁村にポルトガルの色彩が少しあり、画家や小説家や作曲家が仕事場としてひと月かふた月滞在するにはなかなかいい場所だという記憶があるのだが、もちろんそれは昔話だ。。

 ずいぶん前だが、マカオのことを調べていて驚いた。タイパ島とコロアネ島が埋め立て工事によってつながったのだ。陸と島がつながるという例はいくらでもあり、マカオだって島が半島部とつながったのだ。しかし、島と島がつながったという例は知らない。

 マカオの変化はそんなものじゃなかった。

 香港とマカオを結ぶ5キロの橋、港珠澳大橋(こうじゅおうだいきょう、Hong Kong-Zhuhai-Macao Bridge)ができた。もちろん、歩行不可。

 2019年にマカオで初めての鉄道である澳門軽軌鉄路(Macau Light Rail Transit)の開業と同時に、マカオ国際空港も開業した。

 マカオには、80年代に1度、90年代に1度行っているが、大した思いではない。