「さあ、行こうか」
彼は立ち上がり、私も歩き出した。アジアの伝説的安宿タイ・ソングリートを出て、バンコク中央駅の方向に戻り、運河にかかる橋を渡った。この運河がパドゥン・クルン・カセームと言う名で、そこにかかるチャルン・サワット橋は1916年に建設されたといった雑学は、その15年以上あとにバンコクで暮らすようになってから知ったことで、その時はただ「クセー!」と感じただけだ。すさまじいどぶの臭気で、呼吸を止めて橋を渡る。バンコクに居て、いつも「臭い」と感じていた場所は、ここともう1か所、インド人街の手前の運河の上にできた商店街だった。それ以外の場所で「クッセー!」と顔をしかめたことはない。
この橋を渡って、中華街の楽宮旅社に行った。のちに有名になる安宿で、その当時でもインド帰りの日本人が数人泊まっていた。1階は北京飯店という飯屋で、そこでたびたび飯を食った。楽宮旅社よりもコストパフォーマンスがいい近所のジュライホテルに定宿を変えてからも、かつての習慣通り、ときどきは北京飯店に顔を出していた。
もう20年ほど前になるのだが、なつかしさもあって久しぶりに北京飯店に行き、日本語のメニューから親子丼を注文してみた。ここで日本料理を食べるのは初めてだ。昔の看板娘は、いまは店主になっている。彼女が暇そうにしているので、世間話をした。初めてタイに来た私に、タイ語のあいさつや数字を教えてくれたのが、彼女だった。今では、タイ語で少しは話ができるようになったが、話をしたことは今まで一度もない。
「オレを、覚えてる?」
私とほぼ同世代の彼女は、初めて会ったころは20歳くらいのはずで、かつて21歳だった旅行者のことを覚えているだろうか。
「覚えているよ」と言って、私をこの宿と食堂に連れて来た日本人の名を口にした。実は、その人の名をいままで思い出せなかったのだが、こういう文章を書いているうちに、思い出した。
「ヒロシといっしょによく来ていたわね。それ以後は、ひとりで・・・・」
そのヒロシが、いまどうしているのかという話をしばらくしたが、その内容は覚えていない。74年にふたたびこの北京飯店に立ち寄ると、日本料理のメニューが壁に掲げられてあった。額装してあって、汚れを防ぐためにガラスも入っていた。書体もきれいで、手間もカネもかかったメニューだった。どういう料理があったかよく覚えていないが、みそ汁と親子丼やカツ丼はあったと思う。アサリ風の貝を使ったみそ汁だけは飲んだことがあり、なかなかうまかったのを覚えている。ヒロシは日本語メニューを書いただけでなく、おそらく日本料理をここで教えたのだろう。70年代末になって、別の筆跡の日本語メニューも張り出されていた。
橋の話を離れて、記憶の寄り道をしているのは、それが楽しいということもあるが、こういう文章を書いているうちにいままで渡った橋のことをいろいろ思い出し、調べものをする時間稼ぎをしていたのである。長くなりそうな予感がする。予定の回数では終わらないかもしれない。
次回は、本筋に戻って、橋の話をする。