1979話 橋を渡る その2

 初めて渡った外国の橋は、どこのどういう橋だったか記憶がない。インドやネパールの川にかかる橋を渡ったかもしれないが、まったく覚えていない。記憶に残っているもっとも古い橋はバンコクだ。

 1973年、ドンムアン空港に降り立った。空港を出ると、ちょっとした広場があって、すぐに大通りに出る。やや寒いデリーからバンコクに来ると、指先がすぐにヌルヌルベタベタしてきた。そのくらい蒸し暑かった。ローリング・ストーンズのアルバム”sticky fingers”( 1971年)を連想できたのはもう少し後だ。アメリカの口語では、この英語は「盗癖」の意味だと知ったのは、もっと後だ。

 「空港を出たら、29番のバスに乗って、駅が終点だからそこで降りて・・・」という情報を、カトマンズで出会った日本人旅行者から教えてもらっていた。終点まで乗っていくのだから、迷うことはないが、あのころは料金が距離によって変わるっていたのだが、こちらはタイ語がわからないから、両替したばかりのバーツコインを掌に載せて、「好きなだけ取ってくれ」というジェスチャーをした。インドと違って、タイならこういうことをしても大丈夫だと、なぜか感じていた。

 バスのドアは開けたままだった。道路の両側は水田だった。水田を背後に建つレンガ風建物に、“TOSHIBA”の文字が入っていたのを覚えているが、それが73年の記憶ではなく、70年代末のような気がするが、唐突な風景だからよく覚えている。

 空港からバンコクの市街地まで行く道がどんなだったか、ライター&写真家の森枝卓士氏がエッセイ『私的メコン物語』(講談社文庫)で書いている。空港からのバスに乗った彼は、車中で急激な腹痛に襲われ、どうにも我慢ができない状況になり、「stop!!」と声を上げ、バスを降りた。荷物を道路脇に置き、田んぼのあぜ道に入り、ズボンを下した。そういうことをしても、誰にも見られないほどの田舎だったのだ。

 腹痛の心配などない私は、水田地帯を走るバスに揺られ、今のチャトゥチャック公園あたりで急に渋滞を経験し、1時間ほどでバンコク中央駅(通称ファランポーン)に着いた。

 「駅前の大通りを左に行き、最初に見えてきた宿に泊まれ」という指示を守り、おんぼろ宿にたどり着いた。そこは、のちにロンリープラネットのガイド“Southeast Asia on a Shostring” で「東南アジアでもっとも有名なホテル」と紹介された「タイソン・グリート」だったのだが、旅行者のたまり場だということなど知らなかった。

 1階が食堂で、2階から上が客室になっている。食堂に入ると、カトマンズでこの宿のことを教えてくれたあの日本人旅行者が飯を食っていた。これが、「旅行中の偶然」の最初の体験だった。

 「おお、今着いたのか。ここを紹介したけどさ、うるさいから、別の宿がいいよ。飯を食ったら、連れて行ってやるよ」

 「宿がうるさい」理由はふたつ。大通りラマ4世通りに面しているから、自動車のエンジン音がうるさい。もうひとつは、西洋人旅行者のたまり場になっていて、酔っ払いとジャンキーが巣くっているからだ。

 私はアイスコーヒーを飲みながら、彼が飯を食い終わるのを待った。厳しい日差しが店に入らないように、軒先に幌地の布を大きく張り出しているので、店内は暗く、ミステリー映画のように不気味だった。