サダル通り
路面電車をエスプラネードで降りて、チョーリンギーという大通りを南に歩いて行くと、左手にインド博物館が見えてくる。博物館の手前を左折すると、そこがサダル通り(Sudder St.)、そのまま歩いて行くと右手に安宿のひとつサルベーション・アーミー(救世軍)があるが、やや高い宿なので素通りしてそのまま歩き、右手に折れるスチュワート通りStuart Laneに入ると右手にパラゴンホテルがある。そういう記憶があるのだが、今地図を見て確認していたら、不可解なことを見つけた。この通りを、Stuartとしている地図とMotijhellとしている地図と、その両方の名前が記してある地図が見つかった。カルカッタがコルカタに変わったくらいだから、通りの名が変わるくらいなんということがないのだろう。しかし、たった数行の文章でこれだけでややこしい問題を見つけてしまうのだから、ガイドブックライターなんてやるもんじゃない。こんな手のかかる仕事は、私には向いていない。
右折せずにサダル通りを直進すると、目の前に消防署が見えてくる。その前のやや広い道であるFree School Streetという名は覚えている。古本屋が多いということもあって、独学地域なのかなどと考えていたのだが、今地図を見ると、Mirza Ghalib Streetに変わっている。パラゴンの前をそのまま奥に進むと、中国料理店があった。豚肉料理もあったが、うまくはなかった。そのまま道なりに歩くと、やはりフリー・スクール・ストリートに出る。そのあたりにも中国料理店が数軒あった。私の記憶では、古本屋と中国料理店が多いのが、フリー・スクール・ストリートという名の通りだった。
カルカッタのサダル通り周辺の古本屋でアイスバーグ・スリムの本を買った話は、2010年にすでに書いている(290話)。カルカッタとヒップホップという話は、誰の注目も集めなかった。
http://d.hatena.ne.jp/maekawa_kenichi/201010
https://andamansaravanan.wordpress.com/2012/07/02/nostalgic-account-on-big-indian-ocean-liners-called-at-penang/
パラゴンホテルには、私がいた頃、常時数人の日本人がいた。近くのモダンロッジにも数人の日本人はいた。この2軒のほか、サルベーション・アーミー(救世軍)などにも日本人がいて、ある1日に、カルカッタにいた日本人は、合計すると10〜20人くらいだったのかもしれない。あの頃は、カトマンズでも、バンコクでも、おそらくそんなものだろう。
あの時代の日本人団体旅行者は、韓国・台湾へは売春旅行団と、戦前期を知る元植民地再訪団。東南アジアはタイが売春旅行団。他の国は戦没者慰霊団(あるいは遺骨収集団)であり、香港とシンガポールは免税品の買い物、インドは仏教関連の団体客が多かった。年齢的には中高年で、圧倒的に男の世界で、東南アジアはまだ日本の若者が旅する場所ではなかった。ましてや、若い女が旅する場所ではなかった。唯一の例外が、ヨーロッパからインド経由で帰国する若い男たちだった。