1982話 橋を渡る その5

 1980年代に入って、東南アジアの食文化の本を勝手に企画して、自費で取材をしていた。80年代後半には、その本の構成がしだいにまとまってきて目次を作った。東南アジア各地で食べたかき氷のこともぜひ書きたかった。かき氷の東南アジア史を調べるには、かき氷の日本史も調べないといけない。おもしろいとは思ったが、資料が少なかった。そのとき書こうとしていた本は、『東南アジアの日常茶飯』(弘文堂、1988年)としてまとまるのだが、それから35年たった現在でも、かき氷のアジア史を書いた人はいない。おいしいかき氷の作り方と食べ歩き本ばかりで、これはかき氷に限ったことではなく、食べ物の本は、ガイドと調理の資料があれば読者には充分らしい。

 『東南アジアの日常茶飯』の構想は、料理本でも食べ歩き本でもない。食文化の本を書きたかったのだが、ある料理や食材の歴史や調理法といった話と共に、食べ物がある風景も描きたかった。日本で言えば、大衆食堂のメニュー紹介ではなく、大衆食堂の光景や音や匂いも描きたかった。別の言い方で言えば、食べ物がある場所の物語と情景も書きたかった。

 『東南アジアの日常茶飯』のそれぞれの項目を立て、そのテーマの物語を書いた。そのあとに、考察を書くという構成にして、原稿を書き始めた。「かき氷、氷、飲み物」のテーマの物語には、バンコクの橋のたもとのかき氷の話と、インドネシアの話を書いた。ほかの項目も同じように、短い物語を書いた。

 原稿が半分くらいできたところで編集者に見せたら、「物語と考察の文章があまりに違うから、物語部分は外しましょう」という提案を受け、それは予想していた意見だから、すぐさま我が企画は変更し、考察部分だけで本にすることにした。その原稿が『東南アジアの日常茶飯』としてまとまるのだが、除外した「物語」の原稿を、どうしようか。

 そのころ筑摩書房から実におもしろい旅の本が出ていた。『街道のブライアンまたはマジックバスの旅』(黒田礼二、1983)という本で、前川好みの本だから、まあ、売れなかったが、現在も古本価格は高い。その本の編集者と縁があり、『東南アジアの日常茶飯』から除外した物語の原稿を筑摩書房に持ち込み、『路上のアジアにセンチメンタルな食欲』という本ができた。そういういきさつは、2005年に、このコラムの105話に書いた。

 1980年代に入り、バンコクを定点観測地と決めて通うようになり、90年代には住み始めることになった。1980年代のバンコクは、かつて交通路だった運河はドブに成り下がり、ごく一部の運河だけが観光客もてはやされるだけだった。バンコクは大渋滞で有名になり、自動車移動が昼間は時速1キロか2キロくらいになる事態の打開策として、90年代には運河を交通路として見直すことになり、水上バスの運行が始まり、その運航便数はますます増えている。

 1990年代に入り毎日バンコクを歩くようになり、橋が気になってきた。運河の街バンコクは、やはり水と橋を押さえないといけない。そこで、橋巡りをした。その歩みは、「橋を巡る」として、バンコクの匂い』(めこん、1991年。ちなみに装幀は菊池信義さん)に載せた。バンコクの橋に関するまとまった日本語の文章は、たぶん今もこれだけだろう。やはり、橋に興味を持つ人はほとんどいないのだ。

 こういう話を書いていたら、いままで渡ったいくつもの橋が頭に浮かんできた。” Many Rivers To Cross”(Jimmy Cliff)が頭の中で鳴っている。1978年に、中野サンプラザで彼の歌を聞いたなあ。

 次回は、『バンコクの匂い』では書かなかったバンコクの橋の話を書く。