1989話 橋を渡る その12(最終回)

 

 ナイロビで1年くらいは生活してみようかと思っていたが、東アフリカの生活が半年過ぎると、だんだん飽きてきていた。もっと刺激が欲しかった。変化のある食事をしたかった。ぜいたくはいわないが、もう少しうまいものを食いたかった。そんな不満を抱えていたある日、「そうだ、ピザを食べにイタリアに行こう」と思った。ナイロビからヒッチハイクや船の旅を始めた。1982年のことだ。

 ケニアウガンダスーダン、エジプトと北上し、船で地中海を渡った。アレクサンドリアから直接イタリアへの航路があったかどうか調べなかった。まずはギリシャに行き、そこからイタリアに行くと決めた。

 アテネでイタリア行の航路を調べた。パトラから船に乗り、ケルキラ島(ギリシャ領だが、イタリア語のコルフ島と言う名の方が知られているようだ)に寄り、イタリアのブリンディジに行く切符はアテネで買った。すぐに、アテネからパトラへのバス切符も買ったのか、それともバスと船の切符をセットで買ったのかは記憶にない。ギリシャもイタリアも、一切に情報がなかった。はっきりしていたのは、「イタリアでピザを食いたい」というだけだから、ギリシャ情報は何も持っていなかった。ギリシャ地図さえ持っていなかったから、パトラはどこにあるのか知らなかったが、「バスの終点で船に乗ればいい」と思っていただけだ。

 アテネからパトラへ向かうバスが止まった。港街ではなさそうだ。ここがどこなのか、わからない。乗客はバスを降りる。故障か? アナウンスがあったかどうか、記憶にない。バスを降りて、ほんのちょっと歩くと、大地の深い亀裂が見えた。高山や極地にあるクレバスのようだが、その幅は広く、はるか下を見ると船が航行している。運河だ。ずっと後になって調べて、そこがコリントス運河だとわかった。この名所をバスの乗客に見せてあげようというサービスだったのだ。乗客たちは、橋から運河を見下ろした。運河に架かる橋は何本もあるが、私が越えた橋がどれなのかわからない。

 イタリアのブリンディッジに着いたのは夕方で、ローマへの夜行列車の切符を買ったあと、発車の数時間、街を歩き、ピザ窯で焼く本格的ピザを見つけて食べた。感動のうまさだっら。

 イタリアでピザを食べるという目的しかないから、ローマに着いても、観光案内所でもらった市内地図以外の情報はなかった。そのとき、ローマのどの地区の安宿に泊まったのか記憶がまったくないのだが、おそらく安宿が集まっている駅周辺だっただろうと思う。

 ローマで特に見たいものはないから、街散歩のとりあえずのコースは、バチカンにした。やみくもに歩くより、ローマの西にあるバチカンをめざして歩けば、おもしろいものが見られるかもしれないと思っただけだ。

 記憶で、その時の散歩ルートを追ってみる。駅周辺の安宿を出た。道路が入り乱れているから適当に歩くと迷子になりそうな予感がして、まずは大通りを歩いてみることにした。クイリナレ通りをしばらく歩いていると、左手に白い大きな建造物が見えてきた。小さなローマ地図にもその白い建物の名前が書いてあったかもしれないが、そういうものにハナから興味がないので、名前を確認しなかったのだろう。それがビットリーオ・エマヌエーレ二世記念堂だという名だと知るのは、2度目にイタリアに行った2017年だ。

 道に迷わないように大通りを歩いたのだが、そういう散歩は迷子にはならないがおもしろくないので、路地に入り込むことにした。ローマをよく知っている人なら、ここで路地に入り込むとどういう光景に出会うかすぐにわかるだろう。

 路地に入れば、人が少なくなり、生活が見えてくるかと思ったら逆で、路地を歩くにつれ観光客が増えていった。そして、その先に見えてきたのが、かのトレビの泉だ。路地の観光客は泉の背後にも数多く歩いているので、何があるのかと思い歩いてみたら、スペイン広場だった。観光地には行く気がなかったのに、路地に入り込んだ結果行きついてしまうという偶然だった。2017年のローマ散歩もまったく同じように、ローマ駅から西に歩き、この巨大な白い建造物に出会った。「ああ、そうだった。ここで路地に入ったんだ」と、1982年のローマ散歩を思い出したのだ。

 バチカンへは、橋を渡って行ったという記憶があった。今、ネットの画像で確認すると、1982年はビットリオ・エマヌエーレ二世橋を渡ったようだ。2017年はその北の、サンタンジェロ橋を渡った。1982年のバチカンは、そこそこの人出と言ったくらいで、サン・ピエトロ大聖堂は数分並んだくらいで入れたのだが、私はTシャツに半ズボンにサンダル姿を理由に入館を拒絶された。「もののついで」程度の興味しかなかったから、中に入れなかったことは悔しくんどない。服装制限は許せないとも思わない。

 2017年のバチカンは、おそらく東ヨーロッパと中国からの観光客が急増したからだろうが、大聖堂前は長蛇の列が出てきていた。もとより中に入る気はないので、すぐさまバチカンを出国して、イタリアに再入国した。

正面奥が、サン・ピエトロ寺院。かつては、こんなに観光客はいなかった。

 いままで書いてきた橋のほかにも、渡った橋や眺めた国境の橋などいくつもあるが、取り立てて文章にしたくなる思い入れや思い出はない。そうした橋のなかには、世界遺産に選定されたものもあるようだが、そういう話はほかの人が書くだろう。私の仕事ではない。のちのち、「あっ、そうだ。あの橋を忘れていた」と記憶がよみがえることがあるかもしれないが、それはそのときということで、橋の話は今回で終える・・・と書いていて、突然ミャンマーの鉄橋を思い出した。マンダレーからラシオに行く途中に見たゴッティ鉄橋だ。予備知識などまったくなくて出くわした、巨大鉄橋だった。私にしては珍しく写真を撮ろうとしたら、車掌(私服警官?)に強く規制された。こういう話はキリがないので、本当に、これで終わる。