67話 外国を舞台にした小説の会話


 旅先で言葉に苦労することが多いせいか、海外を舞台にして日本人が書いた小説の会話が気にかかる。そういう小説を何冊も読めば、主人公の語学力によって、小説の内容がいくつかに分類できることがわかってきた。

(1)日本語しかできない場合………団体旅行で事件がおきるというパターン。あるいは、旅 行者や駐在員など日本人居住者のなかでしか物語が進行しない構成。ときには、日本語が堪能な地元の人が登場することもある。香港を舞台にナインティーナイ ンの岡村隆史が主演した映画「無問題」(モーマンタイ)は、通訳をうまくつかうことで世界を広くした。その点だけでも、この映画は意外によくできていると 思う。ついでに書いておくと、続編の「無問題2」には、タイ映画のパロディーシーンがある。

(2)英語ができる場合………会社員の出張、個人旅行者などが主人公。外国語がヘタなこと では定評がある日本人のことなので、英語が堪能な人物を主人公にするためには、例えば「アメリカ留学経験あり」などという経歴にする。非英語圏を舞台にし た場合は、英語が得意な地元の人物を登場させる。英語で書かれた小説には、このパターンが多い。007シリーズのように、英語が堪能な美女が現れて……と いうパターンである。

(3)現地語ができる場合………こうなると、主人公は語学の天才にするか専門の学者にす る。『チェンマイの首』など中村敦夫の小説の主人公は、語学の天才にしている。東京外国語大学の卒業生という設定もありうるはずだが、そういう人物が主人 公という小説は記憶にない。現地に長く住む日本人や日本に帰化した人物が登場することもある。昔なら元日本兵、最近では現地での生活が長いNGOなどの関 係者を主人公にすることもある。アメリカやフランスなら帰国子女である日本人を主人公にすれば、言葉の問題は解決するが、アジアが舞台だと特別な設定が必 要になる。ジャカルタ日本人学校を卒業しても、インドネシア語が流暢にはならないから、「親のどちらかがインドネシア人」といった経歴の説明がないと不 自然になる。
 したがって、(1)や(2)のパターンなのに、例えばタイ人たちが話している内容を主人公が理解できたらおかしいし、タイ人たちが英語で話し合っている という設定では、「じつはタイ系アメリカ人だ」といった説明でもなければ無理がある。しかし、現実にはそういう小説がある。
 こんな例もあった。中国語が少しわかる主人公が、バンコクの中華街に行くと、人々の話がよくわかるといった記述を見つけたことがある。この場合の中国語 とは北京語なのだが、中国系タイ人が話しているとすれば、潮州語か客家語で、屋台のオヤジと客が北京語で会話していることは、「絶対にない」とは言えない が、それならなにか理由があると考えるのが普通だ。

 おそらくほとんどの読者は、私がここに書き出したことはまるで気にならないだろう。「小 説だから、なんでもあり」ということもあろうが、外国で言葉に苦労したことがないからでもあるだろう。団体旅行ならもちろん、個人旅行でも日本語とカタコ トの英語で買い物をしているくらいなら、外国語で苦労することはない。苦労したことがなければ、小説のなかの会話なんぞに神経をとがらすということもない だろう。