68話 スマトラの港で見たものは


 ジャカルタから船でスマトラをめざしたのは、1974年だった。
 バスと連絡船でジャワ島からスマトラ島への旅行ができることはわかっていたが、船を利用することにした。船で赤道を越えたかったからであり、「マラッカ 海峡の航海」を体験したかったからでもある。「赤道」と「マラッカ」というふたつの言葉は、日本で育った若者には魅力的な響きがあった。
 そのころもカネがなかったから、船室などもちろんなく、私は甲板の客となった。熱帯の旅とはいえ、天候は悪く、海の上は風が強く、できることなら通路な どに快適な場所を確保したかったのだが、そういった場所は旅慣れた船客たちに占領されて、私は吹きっさらしの甲板に荷物を置いて、横になった。
 はっきりとは覚えていないのだが、船はシンガポールの南にあるビンタン島のタンジュン・ピナンを経由してマラッカ海峡に入ったから、たぶん2泊3日の旅 だったと思う。目的地はブラワン港。スマトラの大都市メダンへ30キロ弱のところにあり、メダンはトバ湖への玄関口となる街でもある。ブラワンから東に目 を向けると、マレーシアのペナンがあるという位置関係にある。
 インドネシア国内の船旅だから、船を降りてもイミグレーションも税関もなく、港の建物を出て、メダンに行くバスを探すために歩こうとしたときに、変な光 景を目撃した。港湾事務所の隣りは柱と屋根だけの建物があって、駐車場や駐輪場、あるいは市場のような建物なのだが、そこはなんとパチンコ屋だったのであ る。
 椅子はなく、客は立ったまま打っているから、その姿は映画やテレビ番組で見た日本のパチンコ初期と同じだった。私はパチンコファンではなく、それまでに パチンコ店に入ったことはあまりなく、それ以後もほとんどないのでよくは知らない。そんなわけで、興味をもってスマトラのパチンコ屋を点検しなかったか ら、詳しいことはまったくわからない。その台が玉をひとつひとつ穴に入れる古典的な機種だったのか、それとも玉を入れる皿があり、レバーをはじくだけで自 動的に玉送りされる機種だったのかも記憶にない。せめて機種の写真だけでも撮っておけば、のちの雑文に役だっただろうと、いまにして思うのだが、当時は調 べるどころか写真を撮るのも嫌いだったからしかたがない。はっきり覚えているのは、子供向けに数台置いたようなパチンコ屋ではなく、30台から50台くら いあったと思う。昼間の時間で、客は数人いただけだ。
 パチンコ台はたびたび海外に輸出されたことがあるのは知っている。テレビで台湾のパチンコ屋を見たことがある。本やインターネット情報では、アメリカ、 カナダ、タイ、マレーシアやカンボジアなどにもパチンコ台が輸出されたそうだ。しかし、それは台湾やカンボジアなどを除けば、遊園地のゲーム機として数台 使用されたらしく、しかも1970年代にさかのぼって、外国にパチンコ屋があったという資料は発見できなかった。
 パチンコそのものには興味はないが、「パチンコをめぐる世界現代史」はなかなかおもしろそうなテーマだといまは思うが、誰かがそんな本を書いてもたぶん 売れないだろう。野球や麻雀などと同じように、そのジャンルのファンは多くても、興味の範囲は極めて狭い。マンガファンは外国のマンガにはほとんど興味が ないらしく、鉄道マニアも外国の鉄道にはあまり興味がないらしい。多くの野球ファンは、スポーツ新聞の情報だけで満足なのだ