160話 色香に惑う少年


 1963年。
 東京オリンピックの1年前、春までは小学校4年生だった。4月に5年生になった。どうやら、その頃に、私は色香というものを全身に感じたらしい。
 あの時代は、小学生の男の子が芸能人に夢中になるというのは例外的な存在で、たいていの男の子は、野球かプラモデルか、鉄道模型か昆虫採集か切手収集か 自転車に夢中になっているものだった。もちろん、色香が気になる年頃になりつつあったにせよ、部屋に女性歌手の写真を飾るには、まだ5年ほど早かった。
 私も写真や映像で色香を感じたのではない。視覚ではなく、もちろん触覚でもなく、聴覚だったらしい。視覚によるものではないから、「かわいい」とか「美人」だからというのではなく、なんとも色っぽい声と音楽に、あどけない少年はやられてしまったのである。
 2曲にやられたのだが、順序はわからない。どちらも、この年、1963年に発表された歌で大ヒットした。
 ラジオで音楽を聴くのは1950年代から好きだったが、もっぱら英語の歌か日本語の歌だった。いや、そんなことはないか。現在と比べものにならないくら い、さまざまな言語の歌が放送されていた。アーサー・キッドの「ウシュクダラ」はインチキなトルコ語風だろうが、トニー・ザイラーの「白銀は招くよ」は、 当然ちゃんとしたドイツ語だ。トニー・ザイラーは、1956年のコルティナダンベッツォ冬季オリンピックでスキーの三冠王となったドイツの選手で、日本で も有名になった。1959年のドイツ映画「白銀は招くよ」の主演をつとめ、主題歌も歌った。幼少のみぎり、私もラジオから流れるこの歌は何度も聴いてる。 1970年代に入っても、冬になると、ラジオからはこの映画のテーマ曲と、「白い恋人たち」が流れていた。
 たぶん、次にドイツ語の歌がラジオから何度も流れるのは、エンゲルベルト・フンパーディンク(60年代)で、次はネイナ(80年ごろ)くらいだろう。
 寒いのが嫌いな私は、映画「白銀は招くよ」を見ていない。しかし、つい最近、テレビでこの映画のワンシーンを見た。女性選手がスケートをやっているシーンだ。その選手こそ、1950年代に活躍したスケート選手、イナ・バウアーなのである。
 1950年代から60年代には絶えずシャンソンが流れていて、日本語詞が多かったがフランス語のままの歌もあった。だから、フランス語の歌は珍しくはな いのに、シルビー・バルタンのハスキーな声の「アイドルを探せ」には、打ちのめされた。子供のクセに、本でも映画でも食べものでも「お子様向き」が嫌いな 1963年の私は、大人の歌にやられてしまった。
 当時の大人から見れば、シルビー・バルタンは決して大人ではなく、「娘の歌」なのだろう。1944年生まれのシルビー・バルタンは、「アイドルを探せ」 がヒットした1963年には18歳か19歳だった。私より7歳か8歳年上にすぎないのだが、少年にとっては充分に大人だった。
 芸能雑誌はもちろん、あらゆる雑誌を読んでいなかった小学生は、シルビー・バルタンの姿などまったく知らなかった。だから、すぐさまレコード屋に行き、 ジャケット写真で金髪だと知った。小遣いを貯めて、まもなくシングル盤を買った。生まれて初めて買った、記念すべきレコードである。
 この年に、少年の体を悩ませたもう1曲は、「イパネマの娘」だ。ブラジル人主婦アストラッド・ジルベルトが歌うボサノバだ。彼女は、ブラジルの有名音楽 家ジョアン・ジルベルトの妻で、少し英語がしゃべれるというだけのことで、アントニオ・カルロス・ジョビンのこの歌の英語詞を歌った。サックスがスタン・ ゲッツで、アルバム「ゲッツ/ジルベルト」はベストセラーになった。
 このブラジル人主婦の歌は、日本に住む小学生の耳にさえ「へたくそ」に聞こえた。その理由はボサノバという音楽が、不安定な感じを与えるささやく歌だと いうことと、実際にアストラッド・ジルベルトは素人そのままのヘタな歌しかうたえなかったのだ。しかし、それでも、紅顔の少年は、やられてしまった。スタ ン・ゲッツのサックスというジャズっぽさにもやられたのだと思う。
 魅惑の色香といっても、大人を惑わすような過剰なものはかえって嫌っていた。マリリン・モンロータイプはずっと好きになれない。ただし、映画俳優としてのモンロー本人の「帰らざる河」は、悪くない。
 ハスキー声が好きだからと言って、<ニューヨークのため息>ヘレン・メリルは苦手だった。大人すぎたのだろう。ヘレン・メリルが本当にいいなあと感じるようになったのは、40歳を超えてからだ。
 アストラッド・ジルベルトのあと、ブラジル音楽は「セルジオ・メンデスとブラジル66」を聞くようになるのだが、いずれもアメリカ経由だ。ミリアム・マ ケバという南アフリカ出身の歌手もアメリカ経由で聞いている。さきの「ウシュクダラ」だって、アメリカ経由だろう。しかし、ヨーロッパからも、イギリスだ けでなくイタリアやフランスからも音楽が入ってきていた時代だった。
 日本では、まだかろうじて浪曲がラジオから流れる時代だった。アルゼンチンのフォルクローレ歌手・ギタリストの、アタウアルパ・ユパンキの初来日は1964年だ。ベトナムの歌手カン・リーが来日したのは、たぶん1970年だったと思う。
 私の色香アンテナは、女の色気ということもあるのだが、どうやら自然に非英米という方向に向かっていたらしい。きっかけなどない。自覚もない。意識し て、非米・非英を決めたわけではなく、ただ、なんとなく、英語の歌じゃないほうが性に合うのであり、心地いいのである。外国に行きたいと漠然と思っていた が、多くの日本人とは違って、アメリカに行きたいとはまったく思わなかった。
 1960年代にレコードを数枚買っただけで、数十年買わずにラジオばかり聴いていたのに、世界の音楽を比較的聴いている。レコードを買わなかったのは、そんなカネがあったら旅行資金にしたかったからだ。
 1960年代当時の、日本の音楽世界がいかにすばらしいものか改めて思う。NHKーFMの平日午後は、かつてはバラエティーにあふれた音楽を放送してい たのだが、いまやゴミ番組の背比べになってしまった。おそらく、私と同世代の音楽ファンは、この空しさと寂しさを共有してくれるだろうと思う。音楽は、 ハードが貧弱だった時代のほうが、ソフトは豊かだったかもしれない。