159話 海外旅行と植草甚一の時代


 インターネットで検索していて、もっともよく出会うサイトは、じつはこの雑語林なのであ る。私がもっとも知りたい方面の事柄を探せば、この前川がもっとも関心がある事柄を書き続けているこのサイトがヒットするのは当たり前といえば、当たり前 なのだが、苦労して検索していて、結局出会うのは自分の文章かよと思うと、「徒労」という語が頭に浮かぶ。
 しかし、それを逆用すれば、この欄を自分のメモ帖に使えるわけだ。ノートにメモしたら、それっきりで忘れてしまいそうだが、ここに書いておけば、いつか検索でひっかかる可能性がある。
 というわけで、『植草さんについて知っていることを話そう』(高平哲郎晶文社、2005年)から、海外旅行に関係する部分を書き出しておこう。この本 は、奥付けでは「高平哲郎著」になっているが、実際には、高平がさまざまな人と植草甚一をネタにして対談した本だ。ここで私が書き出すのは、植草甚一とは 関係がない。日本人と海外旅行の歴史メモだ。
 この本で、石川次郎(1941〜 )が「平凡パンチ」の時代を語っている。石川は大学卒業後2年間ほど旅行社勤務のあと、平凡出版に入社し、「平凡パンチ」、「ポパイ」、「ブルータス」、「ターザン」、「ガリバー」などの編集を担当した。

 「実はぼくは二十六歳で編集者になったんですけど、仲間 よりも二、三年遅れて、少しハンディキャップを抱えてのスタートだったんですよ。違う仕事をちょっと・・・・。実は六四年に学校を卒業して、まあほとんど 学校で勉強なんかしなかったんだけど・・・。その時、なんとか外国に行く方法はないかと考えて、ええ。とにかく外国を見たいという気持ちが強くてね。当然 お金もないし、楽に行ける方法はないかなあと考えたんですよ。それには、海外旅行関係の産業に就くのがいちばんじゃないかということで・・例えばエアライ ンとか海外専門のトラベル・エージェントに勤めたいなぁと強く思ってたんですよ、かなりイージーな発想なんだけど。
 ぼくが卒業する年に海外旅行が自由化するっていうこともあってね、当時、一年間で十万人も渡航者がいない時代ですよ。いまは千七百万人の時代になっちゃ たけど。ぼくはその海外旅行ってのが、将来、大きなビジネスチャンスになるんじゃないかという直感があった。いや、素人っぽい予感ですけど。それと、アメ リカです。アメリカが気になってしょうがなかったていうのがあったんですね。VANジャケットという会社がアメリカの匂いをまき散らしてさんざん刺激され た。とにかく一回行かないと話しになんないっていう感じがあったんで、その手段として選んだのが海外旅行代理店。代理店業務に興味があった訳ではなくて、 何とか行きたいと。それだけです。
 (略)
 でもね、初めて行った外国はアジアだったの(笑)。香港とかタイとか。でも、まあ、一歩日本から出たということで、近いうちにアメリカに行くぞっていう 気はあったんだけど、結局、挫折したんです。代理店時代にはアメリカにいけなかった。ヨーロッパは行きました。アジアを繰り返し行きましたけど、なぜかア メリカ方面に行くチャンスはなくて、ハワイにさえ行けなかったんです」

 64年に創刊された「平凡パンチ」の社外モニターをやっていたというきっかけで、旅行代理店をやめた石川は、平凡出版に入社する。

 「(元海外旅行の代理店勤務だったという前歴を買われ て)、それで、変な話ですけど、ぼくが海外取材担当になっちゃった。入社していきなり。(略)ぼくは挫折して海外旅行の会社を辞めたのに、新たに入った会 社、出版社、そこで、『平凡パンチ』という編集部がちょうど海外取材をこれからやろうっていう時にポンと入っちゃった。それで、他の人間よりも多少あいつ のほうが外国には馴染みがあるだろうし、動けるだろうということだけでぼくが担当者になったっていう、そういうことなんですよ」

 ヒッピーの時代のアメリカはやがて姿を変え、石川も別の雑誌を考える。ベトナム戦争が終わって、反抗や抵抗する相手がなくなり、自分を見つめ直そうと考えた。自転車、ジョギング、短髪の、クリーンなアメリカの若者。そういうアメリカを反映した雑誌が、「ポパイ」だった。

 次は、時代がもう少し前の話。話すのは渡辺貞夫(1933〜 )だが、引用ではなく、要約。
 渡辺は、1962年にアメリカのバークリー音楽院に留学している。その時、ナベサダ29歳。すでに妻も子供もいた。
 留学に尽力したのは、すでにアメリカに渡っていた秋吉敏子。彼女はバークリーを紹介して、フル・スカラシップ(多分、渡航費と学費・生活費の全額が支給されるという意味だろうが、よくわからない)が受けられるよう手配してくれたらしい。
 渡辺のジャズ仲間は、草月会館で歓送コンサートをやり、売り上げ金から20万円を餞別として渡辺に与えた。当時の20万円は、若いサラリーマンの年収分くらいだ。

 「当時アメリカは遠い国でね。それこそ、映画で憧れた摩天楼の世界のあの中に行けるなんて夢にも思ってなかったわけですから・・・・行きたい。ただ行きたかったけど、瞬間の逡巡はありましたよ。もう結婚もしてましたし・・」

 アメリカに渡った渡辺は、学校が始まるまでとりあえず秋吉宅に居候させてもらい、仕事も世話してもらった。餞別にもらった20万円は日本に残した家族の生活費に置いてきたから、アメリカで稼ぐ。 
 あのナベサダも、アメリカでは貧乏学生だったのだなあという