158話 昭和30年代ブームを疑え


 「ALWAYS 三丁目の夕日」という映画が大ヒットしたらしい。進駐軍兵士となった日 系アメリカ人2世の物語でもないのに、英語の題名をつけるその植民地根性、英語かぶれ思想が気に食わない。輸出時の英語タイトルというわけではなく、日本 人向けに公開するする日本映画に、「英語を使えば、かっこいいだろ」という発想が、恥ずかしく、嘆かわしいのだが、今回は英語の話ではない。いや、たった 今思い出したことがあるので、ついでに書いておこう。恥ずかしい英語と映画の話だ。
 2005年に多少は話題になった映画に「北の零年」があった。映画会社が、吉永小百合でまだ客を呼べると期待した作品だ。さて、この映画の題名だが、素 直な人なら「きたのれいねん」と呼ぶはずなのだが、映画会社は「きたのぜろねん」と読ませた。ゼロ? なんで英語なんだ。ゼロといえば、戦闘機の零戦は戦 時中には当然英語まじりの「ゼロせん」などと呼ぶはずがなく、「れいせん」だったはずと推測して調べてみたが、どうやら戦時中でも前線では「ゼロせん」と 呼んでいたそうで、ゼロはむずかしい。
 それはともかく、この映画の話をもっと複雑にしているのは、武士がでてくる北海道開発物語映画に、飾りにすぎない英語タイトルがついているのだ。
 ”YEAR ONE IN THE NORTH”
 英語世界ではまだゼロは発見されなかったようで、こういう英語を使う意味があったのかといえば、飾りとしての意味は充分にあったということだろう。英語 が見えると、「なんだか、かっこいいぜ」と思うような日本人が、「小学校から英語を教えるべきだ」などと主張するのだ。そう、英語は飾りなのだ。
 さて、話を戻す。「ALWAYS」という映画の宣伝文句は、ポスターなどにこう書いてある。
 「携帯もパソコンもTVもなかったのに、どうしてあんなに楽しかったのだろう」
 「バカをいってるんじゃない」と反論しておこう。昭和30年代前半に携帯電話もパソコンもないんだよ。存在しないものを、「ないからくやしい、さみし い、つまらない」とは思わないだろ。テレビは登場してきた時代で、だから多くの日本人はテレビを楽しみにしていた。テレビが欲しかった。だから、ある年齢 以上の人は、テレビが自宅にやってきた喜びを覚えているのだ(私は、「その日」をよく覚えていないが)。
 だから、あの時代の人は当然携帯電話もパソコンも知らなかったのだから、「それらがないのに、楽しかったのは不思議」と考える広告屋および関係者を、「アホ!」と罵倒しておこう。
 ふたたび、「ALWAYS」から、DVDの解説文を紹介しておこう。
 「昭和33年――日本はけっして裕福ではなかったけれど、人々は明るくきらめく未来に向かって懸命に生きていました」
 アジア文庫の愛用者や、アジア本をある程度読んでいる人なら、どうして私が「昭和30年代ブーム」にイライラしているのか、きっとわかるはずだ。素人や素人同然の人が書いたアジア旅行記には、しばしばこういう記述が登場する。
 「この国はたしかにまだ貧しいが、日本人がとうの昔に失った心の豊かさがここにある。家には電気製品など何もないが、のんびりとした生活と、家族の会話 がある。テレビの代わりに、星空の下で、老人たちが語る昔話がある。子供たちの目は、どうしてこんなにも澄み切っているのだろうか」  
 などという文章とともに、農村で遊んでいる子供の笑顔写真を載せるというのが、豊かな日本人が貧しい国を訪れたときのベタな発想、常套手段なのである。 「良心の塊のような人間」だと自他ともに認める日本人が、例えば農村に住むカンボジア人についてのこうした発言は、2006年の日本人が、貧しかった 1958年の日本人に対して「モノがなくても、心の豊かさはありました」という発言と、基本的には同じなのだ。
 カンボジアの農村生活レベルも昭和30年代の生活レベルもまったくの他人事で、発言者は2006年の最先端文明生活を享受しているのだ。携帯電話もパソ コンもテレビも、エアコンも自動車も電子レンジもDVDプレーヤーも、なにもかも手にしたうえで、「素朴な生活がすばらしい」だの「あのころは貧しくて も、楽しかった」と発言しているのだ。「あの、貧しい生活」には戻らないことを前提として、貧乏生活を賛美しているのだ。
 1947年に網走で生まれ、父親はばくちに狂い、母親は子供を置いて逃げ去り、子どもたち4人で暮らしていた永山則夫少年にとっての昭和30年代は、 「昭和30年代ブーム本」が描く楽しく優しい時代だったのか。永山少年が集団就職で北海道を出て、どういう行動をしたのかという説明は、このコラムの読者 には不要だろう。永山則夫は特定の個人だが、「ながやま」のような少年や少女はいくらでもいた。そういう元少年少女に向かって若者が、「集団就職の時代っ て、楽しくすばらしい時代でしたね」と言って、「そうだね」と言ってもらえると思っているのだろうか。
 どぶ川も糞尿臭も煤煙もなく、練炭や豆炭の匂いもなく、「交通戦争」ということばが生まれた時代なのに交通事故死もない「昭和30年代ブーム」の本。時代の負の部分を書かないこの手の本を、「おかしいぞ」と気がつく出版人はどれだけいるだろうか。