405話 世代間格差

 あれは私が高校生の頃だったから、1960年代末だと思う。何かのきっかけで、母から戦後の食糧難の話を聞いた。映画やテレビで、「食糧難」の時代があったことは知っていたし、「買い出し列車」だの「闇市」だの「タケノコ生活」といった戦後用語も知っていたが、その時代の体験談としてじっくり話を聞いたのは、このときが初めてだった。
 当時の体験者の話を聞いてわかったのは、「食糧難」と言われる時代でも、じつはカネさえあれば何でも買えたのだが、カネがなかった母に買えるものは少なかった。米や砂糖が手に入らなかったという話はよく聞くが、塩など調味料だってなかったんだという話も聞いた。
「へえ、昔は大変だったんだねえ」と私が言うと、「昔? 昔かなあ、戦後のことはつい最近のことに思えるのよ」と母が言った。
 最近? 私が生まれる前の時代が「最近」なんて、そんなの変だよ、遠い昔の話じゃないかと、高校生は思った。その時のことは、のちのちまでずっと覚えている。母が食糧難の話をしたのは、その食糧難の時代から二十数年後のことだ。ということは、現在から考えれば、1990年前後の話をするのと同じだということになる。例えば、1990年はどういう時代だったかと言えば、TBS記者が日本人初の宇宙遊泳、勝新太郎ハワイで逮捕、長崎雲仙普賢岳噴火、キリン一番搾り、踊るポンポコリン、ティラミスといったキーワードがあったことがわかる。
 あの時代を、さすがに「最近」とは思えないが、若者から「昔は・・・」と言われると、あのときの母のように「昔? そうかなあ」と言いたくなる気持ちもある。それよりも、こういう時代感覚を調べて気がついたのは、高校生の私に食糧難の話をしていた時代から25年前はまだ「戦時中」だったということだ。つまり、現在からすれば、1980年代にあたる時代が、まだ戦時中だったということだ。
 私が年下の者と世代間格差を初めて感じたのは、私がまだ若者と呼ばれる年代だった頃だ。20代の後半の短い期間、私は銀座のラーメン屋で出前持ちをやっていたことがある。1970年代末のことだ。店は小さいから、出前で成り立っていた。店には常に何人もの若者が、出前の注文を待って待機していた。我々の配達先で、世間に知られた企業といえば、平凡出版(のちのマガジンハウス)や電通だった。世間には知られていないが、「○○経済研究所」といった看板を掲げた総会屋らしき怪しい事務所もあった。
 午後のヒマな時間に、我々出前持ちが控えの間で、よく雑談をしていた。なにかのきっかけで、東京オリンピックの話になった。オリンピックで東京が大きく変わったというような話をしていたら、ひとりが「なんか、東京でオリンピックをやったことがあるという話は聞いたことがあるんですが、よく知らないんですよね」と言った。あの時代に、「東京オリンピック」は全日本人の常識だと思っていたから、小さな子供ならいざしらず、働いている者が、東京オリンピックを知らないということが信じられなかった。
「何年生まれ?」
「1960年、昭和35年です」
「ということは、オリンピックのときは、4歳か。覚えてなくても、おかしくないか」と、グループの年長者は納得したのである。その後、さまざまな事件や出来事を巡って、同じような体験をすることになる、その最初の世代間格差体験である。
 かつて、「東京オリンピック」は日本人の常識であった。たしかにそうではあるが、私にとって東京オリンピックは単なる世界大運動会にしか過ぎないし、家庭に録画機器がない時代のテレビでは、それほど多くの競技を見たわけでもない。昼間放送されているさまざまな競技が見られないことに、不満を感じた記憶もない。そして、はっきりといえば、多くの日本人は、いくつかの競技を除けば、運動競技それ自体に、たいした興味はなかったはずだ。
 オリンピック当時、30代以上だった日本人は、運動競技そのものに対してではなく、この世界的大イベントに対して、「戦争が終わって、まだ20年もたっていない日本で、このように大規模な世界的競技会が開催できるようになるとは・・・」という感慨が深かったことだろう。戦後生まれの小学生である私には、そういう感慨は当然ない。だから、東京オリンピックを知っている世代といっても、そのなかでやはり世代間格差があるのだ。