404話 文章力がないものだから

 よほど変わった経歴の人物でもなければ、それまでの生涯で、文章を書いた経験よりも読んだ経験の方が多いはずだ。だから、普通の判断力があれば、世間の出版物の文章と、自分が書いた文章のレベルを比較して判断できる。
 私は子供時代から人並み以上に文章を多く読んできたせいか、ライターになろうと思ったころに書いた自分の文章が、プロの世界で生きていけるレベルにはまるで届いていないことは簡単にわかった。ありていに言えば、「ヘタ」なのだ。
 天才でもなければ、駆け出し時代は誰でもヘタな文章を書くものだが、運動であれ芸能であれ、のちにプロの世界で生きる者は、才能の片鱗を見せるものだろう。才能がないとわかっても、「その世界」で生きていきたいという願望があるなら、その次に進む道はこうなると想像できる。
 小説家になろうとする者は、ひたすら書いて書きまくり、自分の文体を獲得する。売れない時代の北方謙三は、発表の当てのない原稿を書き続けて、積み上げれば原稿用紙が自分の背丈ほどにもなったという。著名作家が書いた「文章読本」のような本を熟読したり、好きな作家の文章をまる写ししたりして、文章の呼吸を学ぶ者もいるらしい。
ノンフィクション系の書き手なら、新聞社や雑誌社で、原稿を管理するデスクと呼ばれる編集者に、徹底的に作文の訓練をされるらしい。
 そしてこの私はといえば、ひたすら文章修業に励むこともなく、剛腕編集者に鍛えられることもなく、ただ、好きなように、文章を書いてきたに過ぎない。ただし、自分の文章がヘタだという冷静な判断力はあるので、文章の力で勝負をするという方向はめざさなかった。空想を文章にする空想力も文章力もない。
 私よりも文章がうまい素人は、いくらでもいる。文章力のない者が、原稿料をいただける文章を書くには、方針を決めないといけない。「小説家」や「エッセイスト」を名乗る人のような文章は書けないから、私は情報を盛り込むことにした。文章がうまい人なら、庭の花が咲いたという文章でも、スーパーマーケットでイカを買ったという話でも、読者を満足させられる文章が書けるだろうが、私はそういうスタイルの文章は書けないので、調べて書くという方向を選んだ。体験したことだけを書いたのでは内容に乏しいので、さまざまな文献にあたったり聞き取り調査などを加えて、1本の文章にしていこうと、駆け出し時代に考えたのである。
 非小説という意味でのノンフィクション分野で、私のように考える人はどうやらごく少数しかいないらしい。私と同世代なら、まだ何人もいるが、私よりも若い世代だと、「調べて書く」という方向を選んだ書き手はとても少ない。「現場に行って書く」という体験型の人はむしろ昔よりも多いかもしれないが、「行った。見た。すぐさま書いた」という文章が多くなったような気がする。
 その理由は、手間がかかって、時間がかかり、カネもかかり、作業効率が悪いせいであり、しかも読者はその手のノンフィクションを求めていないから、売れない。1冊の本を数時間で読み終えるというのが、プラスの評価なのだ。濃い情報を求めている読者など、ほとんどいないのだ。そして今は、フィクションであれノンフィクションであれ、どういう分野であれ、本など売れない時代に入ってしまった。
 読み手がいないので書き手が現れないのか、いいノンフォクションが出版されないから読み手がいないのか、ニワトリ・タマゴ論争の結論は、さて、どちらだ。