1218話 プラハ 風がハープを奏でるように 27回

 ベラ・チャスラフスカ その1

 

 2019年のアジア雑語林がまた始まりました。

 ムハの絵で知られる市民会館のすぐそばに、共産主義博物館というものがある。ジョージアから来た留学生にこの博物館に行ったと話したら、とたんに顔をしかめた。「共産主義のどこがいいんだ」と言いたい顔つきだが、もちろん共産主義礼賛の博物館ではない。「あのひどい時代はこうだった」という記録と、人々はその共産党政権といかに戦ったという記録が9割に、「それでも懐かしい昔の生活の再現」が1割というのがその博物館の構成だろうか。幸せにも共産党政権下で暮らしたことがない私には、それなりに興味深かったし、ビデオ室で現代史の映像をじっくり見ることができたのが収穫だった。

 

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 ムハの絵があることでも知られる市民会館。そのすぐそばに共産主義博物館がある。

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 「あの時代、こういうつまらない絵ばかりでした」という展示だろう。こういう絵画を、ハノイの美術館でも見た。

 共産党政権下の映像の中に、陸上選手のトレーニング風景があった。まったく知らない選手だが、字幕を見てわかった。

 Emil Zátopek(1922~2000)。チェコ語ではザートペックだが、日本ではザトペックとして知られる陸上選手だ。オリンピックでザトペックが走っている昔の映像は見たことがあるが、どういう顔つきの人だったかまったく記憶にない。この博物館にザトペックの動画があったのは、有名な陸上選手だったからというだけではない。

ザトペックは、1948年のロンドン・オリンピックで、陸上10000メートルの金メダリスト。次の1952年のヘルシンキ・オリンピックで、5000,10000メートル、マラソンの3種目で金メダル獲得という驚異の成績を収め(この記録はいまだ破られていない)、英雄となったということは今回調べて知った。チェコに行く前に知っていたのは、ザトペックという名前と、「人間機関車」というニックネームだけだった。彼の国籍も成績も知らなかった。

 「人間機関車」というニックネームは、あえぎながら苦しそうに走ることからつけられたようで、日本人の命名かと思ったが、英語の資料には“Czech Locomotive”(チェコ蒸気機関車)という表現がある。欧米の、どこかの誰かが言い出して、日本でも巷間に広まったのだろう。ザトペックといえば、野球に興味も知識もない私でも、「村山実のザトペック投法」は、その意味は分からないものの、聞いた記憶はある。調べてみれば、こういうことだ。村山実関西大学2年生だった1956年に大活躍して、苦しそうな投球スタイルから「ザトペック投法」と呼ばれたという。ヘルシンキ・オリンピックが1952年だが、56年になっても、ザトペックが日本人の深い記憶に残っていたのだ。昔は、今と違って記憶に持続力があった。それでも、ヘルシンキ・オリンピックの年に生まれた私には、同時代感覚は当然ない。記録映像などで「ザトペック」という陸上選手が走る遠景は見ているが、顔を見た記憶はなかった。プラハの博物館で、在りし日のザトペックに出会い、彼がチェコスロバキアの選手だったと初めて知ったのである。

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 ザトペックはチェコの英雄ではあるが、そういう理由でこの博物館に映像が公開されていたわけではない。1968年のプラハの春の時代、つまり「人間の顔をした社会主義」を進めようという時代に、共産党のその姿勢を支持する市民が「二千語宣言」に署名した。発表したのは、1968年6月だ。数万人の署名があったが、有名人ではこのザトペックや、ザトペックと入れ替わるように1958年から国際大会に姿を見せた体操選手ベラ・チャスラフスカがいた。

 チェコに侵攻してきたソビエトは、この「二千語宣言」を反革命的行為だと断定し、ソビエトのあやつり人形となったチェコスロバキア政府は、二千語宣言署名者に圧力をかけていくことになる。

 

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 プラハの春と、それをソビエトがつぶしたプラハ事件と、いっぱいのメダルを持ち帰ったベラ・チャスラフスカの1968年の事件。