1600話 本で床はまだ抜けないが その8

 

 今、この文章を書いているのは6月下旬だが、今朝のニュースで2か月前に立花隆が亡くなっていたと報じている。今回のコラムのテーマに即して考えると、通称「猫ビル」の仕事場に詰まっている蔵書の行方が問題だ。立花はコレクターではない。財力を世界の稀覯本収集に注ぐという人ではなく、本は情報源だと考えていた人だから、古本屋が小躍りして喜ぶような本は、多分、ほとんど持っていないと思う。高価な学術書も多く持っていたが、傍線、書き込み、付箋がついている本が多いかもしれない。本は買って保存しておくものではなく、使うものだと考えていたはずだ。6月末のNHKの番組で、立花の取材メモや録音テープだけでも段ボール箱63箱分あり、NHKに託されたという。これは、立花隆研究のための資料だ。

 蔵書が雑多すぎて古本屋が喜ぶような売り物がなかったと言われていたのが、植草甚一の蔵書だ。英語やフランス語の、いわゆる三文小説が山とあり、日本語の本もいわゆる雑本がほとんどだった。植草は、読むために本を買うだけでなく、本を買うことそのものが大好きだから、ただ買うために本を買っていた。だから、本は増える一方だった。そういう雑本の持ち主が死に、蔵書がゴミになった。燃えるゴミとして植草の蔵書が路上に置いてあるのを見かけたと書いていたのは、沢木耕太郎だったか高平哲郎だったか。植草の所蔵レコードは、まとめてタモリが買い取った。欲しいレコードが多くあったとは思えないから、まあ、香典替わりの慈善事業だろう。まとめて本を買いたいという者はいなかった。

 立花も植草もいずれも、本を売るために本を買い続けたわけではないから、高く売れないということなど気にしてもいないだろう。

 神田神保町の悠久堂書店は、1階に料理や食文化と辞書、2回に山歩きの本があり、十代から通っている古書店だ。10年ほど前になるか、いつものようにこの店に足を踏み入れると、戦前期の女性雑誌や当時の料理本が数百冊積んであって、「あっ、研究者が死んだのか」とひらめいた。私にはまったく用のない雑誌や本だが、数日後に、この分野の研究者である江原絢子さん(えはら・あやこ 東京家政学院大学名誉教授)に会ったので、その話をした。やはり江原さんも愛用の古書店だそうで、「よく行くんだけど、そういう資料が山とあったというのは知らなかった」。近代日本食文化史が江原さんの専門分野なので、専門を同じくする人の動向は把握しているのだが、最近研究者が亡くなったという情報は得ていないという。「来週にでも行って、チェックしてみます」といった。

 それから数か月して、江原さんとまた会った。「このあいだの古本のことですが、すべて持っている資料でした。残念ながら、掘り出し物はなかったですね。でも、誰が売ったんでしょうね。ああいう資料を持っている研究者で、最近亡くなった方って、考えたけどやっぱり知らないんですよ」ということだった。大学などの図書館の本なら、ラベルがついているから、個人かそれとも出版社の図書室の本か。

 本に限らないが、コレクターの心配はコレクションの末路だ。個人蔵書が、大学や研究所やどこかの図書館の蔵書としてまとめて引き取られることは稀有だ。その本が古書として価値がほとんどない場合はもちろん、貴重な資料だとわかっていても、寄贈された本の整理するのは苦労だ。分類して、ラベルを付けて,台帳に登録する作業は、蔵書の内容を理解していないと難しい。さまざまな言語の本だと専門家しか扱えない。アルバイトでもできるという作業ではない。そして、もちろん、保管場所の確保と維持管理の人出と費用が必要だ。

 地域の図書館に「寄付してやる」という申し出がよくあるそうだが、大掃除の廃棄本だったり昔のベストセラーだったり、図書館にとって「欲しくない本」ばかりだという話を何かで読んだ。

 そういえば、図書館自身も蔵書の整理に苦労しているのだ。本はどんどん増えるが置き場所は限られている。近所の図書館では、常時「ご自由お持ちください」という表示を出して、出入り口に廃棄本を積んでいる。そして、たまに大々的に廃棄本フェアーのようなことをやり、1000冊ほどの廃棄本が「ひとり、1回、10冊まで」という条件はあったが、誰もチェックしないので、実際は無制限だった。大物では、全30巻を超える『柳田国男全集』や『折口信夫全集』(どちらも、もちろん文庫版ではない)があったことを覚えている。柳田国男にはちょっと食指が動いたが、「欲しけりゃ、文庫版を買えばいい」と思って、持ち帰らなかった。

 今読んでいる『ブダペスト日記』(徳永康元新宿書房、2004)は、いずれちゃんと紹介しようと思っていたが、今回のコラムと関係のある記述があったので、ちょっと紹介しておく。言語学ハンガリー文学研究者である著者と、文化人類学山口昌男との対談にこういう意味の話が出てくる。徳永氏の話。ユダヤ系作家のザングウィルの作品は、「植草甚一さんの遺した本でほとんど全部手に入ったけれど」『ドリーマーズ・オブ・ザ・ゲットー』が手に入らない。探し続けて、ウィーンの古本屋でドイツ語訳の版で手に入れたという話だ。植草甚一の本は、もちろんある程度は古書店に引き取られて、そういう本を狙っていた読者もいたということだ。

 その徳永氏が亡くなったのは2003年で、数万冊の蔵書は、一部が千葉大学(6800冊)と早稲田大学の図書館に寄贈され、残りは古本屋に売られた。コレクションの幸せな末路である。