238話 石井好子の外国 その4 

 物価と収入



 石井好子がパリに着いて3日目に、シャンソン歌手の仕事が舞い込んだ。留学したのではなく、歌手として仕事をしていたのだった。アメリカでもフランスでも、赤貧の時代はなかったのだ。
 週給1万フランだ。しばらくして、別の仕事の話があった。1年間休みなし、1日2回のステージで、週給7万フラン。そして、マネージャーをつけたので、3ヵ月後には週給25万フランの仕事がきた。
 さて、それがどの程度の価値がある金額なのか、まるでわからない。そこで、遠藤周作に助けてもらうことにする。
 ザビエル来日400年記念事業をやろうという企画があった。上智大学の教授と、フランスのカトリック教会や篤志家の援助で、日本人をフランスに留学させ ようという企画にのって、見事留学の機会を得たひとりが、慶応大学の仏文科を2年前に卒業した遠藤周作だった。日本出発は1950年、遠藤周作27歳だっ た。留学目的は、現代カトリック文学研究だった。
 遠藤が帰国したのは、1953年1月で、7月には留学生活について書いた『フランスの大学生』を早川書房から出した。この留学記が、遠藤の最初の本と なった。早川版が絶版になったあと、1974年に角川書店から新版として発売された。77年には角川文庫に入ったが、絶版。ところが、意外な版元から再発 売されていることがわかった。2005年に新風舎文庫として、4たび姿を見せたのである(そして、この原稿を書いたあと、2008年9月に、ぶんか社文庫 からも出版されたことを知った。遠藤周作にいったい何が起ったのか)。
 新風舎文庫を手に入れて、読んでみた。がっかりしたのは、いきなり、「夏が終って、大学が始まりました」という第一行でこの本が始まり、留学に至るいき さつや、フランスの第一印象やカルチャーショックといった私が知りたいことがなにひとつ書いてないことだ。まあ、それはそれとして、留学生のふところ具合 はきちんと書いてくれた。
 パリではなく、リヨンの大学生の場合だが、2500から4000フランくらいの部屋を借りているらしい。学生食堂で食事をすると、1食70フラン程度、 これに学用品代など諸々の出費を加算すると、ひと月に最低でも1万5000フランはかかるという。ちなみに、1フランは1円30銭だから、最低の生活費だ という1万5000フランを日本円にすると、約2万円となる。1952年の、日本の大卒初任給は6000円くらいだから、2万円は大金だ。
 さて、石井好子の収入だ。週給25万フランということは、ひと月4週としても100万フランだ。貧乏学生が1万5000フランでなんとか暮らしている時 代の100万フランはすごい。日本円にすれば、130万円以上。参考までに書いておくと、1953年の、銀座4丁目付近の土地は、ひと坪114万円だった そうだ。ということは、月収で、銀座の土地が買えたということになる。
 こう考えてみると、1950年代前半に、世界でもっとも稼いでいた日本人が、もしかすると石井好子かもしれないとも思える。会社や農園など組織の長としての収入ではなく、たったひとりの稼ぎとしては、大変なものだ。
 それでも54年に日本への帰国を決意したのは、仕事上の悩みとホームシックが原因らしい。
 以上、このテーマは今回で終了。