264話 マドロスの基礎研究ノート その3


 私がちょっと調べただけだから、正解にはまだ遠いだろうが、映画の世界で初めて「マドロス」という語が出てくるのは、もしかしてフランス映画がらみかもしれない。
 日本タイトルを「掻払いの一夜」(監督:カルミネ・ガローネ)という映画がある。1930年に制作されたフランス映画だ。この日本題ではなんのことかわ からないが、原題の“Un Soir de Rafle”は、「一斉手入れの夜」の意味だ。この映画は、航海から戻った船員と娼婦の物語で、警察による 「手入れ」が重要なシーンになっている。
 この映画の主題歌に日本語の詞をつけた「マドロスの唄」(奥田良三、矢追婦美子とふたりの名が見つかったが、デュエットか、それぞれ別の録音かは不明) で、発売は1932年だ。「マドロス」という語がついた最初の歌は、これかもしれないと思った。しかし、それは早とちりだった。前年の1931年に、「マ ドロス小唄」という歌が発売されていることがわかった。歌っているのは、淡谷のり子だ。デビュー第2作目になるようだ。デビュー曲が「久慈浜音頭」だか ら、当初は日本調で勝負するしかなかったことがよくわかる。このあたりの話は、淡谷のり子関連の調査をやればおもしろい事実がいろいろ出て来るだろうが、 今回は割愛する。
 1934(昭和9)年に、マドロスの歌の大ヒット曲が生まれた。1931年のドイツ映画「狂乱のモンテカルロ」の主題歌を、「これぞマドロスの恋」とし て発売された。歌手は「マドロスの唄」の奥田良三。「マドロスの恋」という名で、カバーされているだけでなく、映画や舞台でも使われたらしい。この歌が きっかけかもしれないが、1930年代に「マドロス」の歌が多くなる。「マドロス気質」(立花ひろし)、「マドロス暮らし」(灰田勝彦)、「マドロス行進 曲」(伊藤久男)、「マドロス万歳」(鶴田六郎)などがある。
 クラシックの世界でも、マドロスはあったようだ。作曲家伊藤昇(1903〜1993)の作品に、弦楽楽曲「マドロスの悲哀への感覚」(1928年)とい うのがある。前衛音楽らしいのだが、詳しくはネットサイトの「プッチーケイイチの女にもてないCDレビュー 2005−12−04」参照。
 というわけで、1930年代が第一期マドロスの時代だといえるだろう。
 戦後のマドロスは、1948年の歌「マドロス人生」(小野巡)から始まるようだ。面倒なことに、この歌と同名異曲が1954年までにあと4曲ある。「戦後はマドロスとともにやって来た」とも言えるが、その最盛期は1950年代だろう。
 タイトルに「マドロス」という語が入っていてもいなくても、マドロスの世界を歌っている歌謡曲はいくらでもある。例えば、1947年のヒット曲、「雨の オランダ坂」(作詞:菊田一夫 作曲:古関裕而 歌:渡辺はま子)にも、「異人屋敷の窓の灯りで ぬれてさまようマドロスさんを・・」という歌詞がでてく る。
 それに比べて、映画の世界には「マドロス物」というようなジャンルはないようだ。マドロスが登場する映画はもちろんあるが、「マドロス物」といえるほど 数多くあるという印象はない。マドロスが久しぶりに帰国して、そこから物語が始まるという映画はあるが、大きなジャンルとして、マドロス映画の群れがある だろうか。そのあたりを確認したくて、映画評論家の佐藤忠男さんにインタビューしたときにこの質問をしたら、「日本映画に、マドロス物はありません」との ことだった。
 タイトルに「マドロス」がついている映画を、キネマ旬報社のデータベースで探したら、次の2作しか見つからなかった。
 「マドロスの唄」(1950年 監督:小田基義 主演:久我美子
 「大暴れマドロス野郎」(1961年 監督:山崎徳次郎 主演:和田浩治
 ただし、よくわからないのだ。「マドロスの唄」に関する資料が出てこない。小田基義は、のちにトニー・谷の映画を作った大監督だが、この映画の情報が出てこない。制作は東映となっているが、1950年にはまだ東映という会社はないので、不明なことが多い。
 調べているうちに、同じ1950年に「岡晴夫マドロスの唄」という映画があったことがわかった。監督は野口博志、主演はもちろん岡晴夫。日本映画科学 研究所の制作で、配給は東京映画。岡晴夫が歌う「マドロスの唄」のレコードは、1949年の発売だから、歌が先で、映画が後ということらしい。
 「大暴れマドロス野郎」は、タグボートの船長を主人公に、ヤクザやキャバレーなどがからむ、ご存知の日活アクション映画だ。私のイメージでは、船で働い ている人ならみなマドロスというわけではない。漁師もタグボートの船長も、フェリーの船員も、どうもマドロスという感じがしない。客船であれ、貨物船であ れ、小さな船であっても外国と行き来している船の船員が、マドロスという気がする。それは、たぶん、歌謡曲が植えつけたイメージなのかもしれない。
 さて、日本人にとってマドロスとはなにか。そういう話は、これから充分に考察してからの話で、ここでは書かない。いや、まだ書けないのだ。マドロス物 が、日本人の異国憧憬にどう作用したのかといったことが知りたいので、これからじっくり考えてみる。新書になりそうなテーマだから、誰かが手をつけるな ら、ご自由にどうぞ。しっかり調べて、いい本を書いてください。
 次回は、マドロスのノンフィクションをとりあげる。