442話 ボクシングのアジアを描け   ―活字中毒患者のアジア旅行

 

 ボクシングの日フェザー級初代チャンピオンは、同時に、日本のボクシング史上初の王座剥奪処分を受けた男でもある。無敵のボクサーは、傷害事件をおこして永久追放された。その男、フィリピン人のベビー・ゴステロの物語、『拳の漂流』(城島充、講談社)を読んだ。読み終えるのが惜しいと思いつつ、最後のページをめくったのは久しぶりだ。
 ボクシングにまったく興味がないので、この本は私の守備範囲外だった。タイトルに「フィリピン人ボクサーの・・」といった言葉が入っていれば、我がアンテナが信号を受信したかもしれないが、まったくノーマークだった。それを予想したのだろうが、知人がわざわざ送ってくれたのがこの本だ。
 産経新聞大阪本社社会部記者だった著者は、1999年のある日、夕刊の特集企画の取材で、ボクシング会場にいた。長らく閉鎖されたままだった在日朝鮮人一世が開いたボクシングジムが、父の後を継いで息子が活動を再開した。そういう話題を追う取材だった。そのジムの名は、「オール」といった。「オール・カインド・オブ・ピープル」の略で、国籍や民族に関係なく、強いボクサーを育てたいという希望を込めて名付けられた。
 取材を進めるうちに、著者は高齢のボクシングファンから、かつてこのジムにとてつもなく強かったフィリピン人ボクサーがいたという話を聞いた。興味を抱いて調べてみると、そのフィリピン人が来日したのは、1941年。戦前だ。彼は戦後も日本に留まってボクシングを続け、「神様」と呼ばれる伝説的ボクサーになったという。そして、引退後も日本に留まっているらしい。
 そのボクサー、ベビー・ゴステロは、まだ大阪にいる。そういう情報を得て、新聞記者は取材してみたくなった。苦労の末にやっと探しだしたが、その男は病院のベッドで寝ていた。日本で50年以上生活しているのに、日本語はあまりしゃべれなかった。英語はもっとできなかった。まともに取材ができぬ間に、老ボクサーは死んでしまった。そこから本格的な取材が始まった。人生の大半を日本で過ごしたフィリピン人ボクサーの生涯は、いったいどのようなものだったのか。ねっ、この先を読みたいでしょ。
 戦後のある時期、ボクシングブームがあったことは、私も知っている。ボクシングがまだ「拳闘」とも呼ばれていた時代、日活にもボクシング映画が多数あった。戦後にボクシングがもてはやされたのには、理由がある。占領下の日本では、剣道や柔道が軍国主義につながるとして禁止され、その代わりにアメリカ人が好きなボクシングがGHQによって推奨された。ボクシングもジャズも、占領政策と深い関係がある。
 決めつけていると非難されるかもしれないが、アジアに興味を持つ人はボクシングにはほとんど興味がない。ボクシングファンは、アジアに興味がない。
ボクシングに無知な私でも、大場政夫のことはほんの少し知っている。元世界チャンピオンのボクサーで、現役のチャンピオンが高速道路で追突死した。その程度の知識しかないし、ボクシングに興味もなかったのに、大場について調べてみようと思ったのは、大場を語る人たちが口にする“チャチャイ・チオノイ”という名が気になったからだ。これは、タイ人の名前だ。『狂気の右ストレート』(織田淳太郎、中央文庫)を買って読んだ。書き出しがバンコクの描写から始まるのにびっくりした。1973年1月2日に、大場と最後の試合をしたのが、タイ人ボクサー、チャチャイ・チオノイで、大場が死ぬのはそれから23日後だ。この本は、チャチャイへのインタビューから始まるので、冒頭にバンコクが登場したのだ。ボクシングファンなら当然知っている名前を、タイ研究者の多くは知らない。
 私はボクシングに関しては無知だが、芸能の分野なら多少の知識と強い興味がある。戦前の上海は、ジャズの都でもあった。ナイトクラブで演奏していたミュージシャンにはフィリピン人が多かった。上海だけでなく、インドネシアでも、日本でも、世界を周遊する豪華客船のなかでも、フィリピン人ミュージシャンたちが大活躍していた。
 戦後日本の音楽界には、レイモンド・コンテやビンボウ・ダナオといったフィリピン人や、日本とフィリピンのハーフのアイ・ジョージなどが大活躍していた。70年代のディスコの時代になると、フィリピンバンドが大活躍する時代になった。そういう日本とフィリピンの関係史を、真正面から取り上げた研究者がなかなか見つからない。 インターネットで調べたら、”Filipinos in Japan and Okinawa 1980s~1972” という論文があることはわかったが、どうやれば読めるのだろう。 (2004)
 付記:『拳の漂流』は、2003年の「ミズノスポーツライター賞最優秀賞」を受賞しているが、ネットで取り上げた記事は極めて少ない。各方面でもっと注目されて、何倍も売れて欲しい本だ。
 『タイの事典』(同朋舎)にも『タイ事典』(めこん)にも、チャチャイ・チオノイの名前はでてこない。上に書いた日本と沖縄のフィリピン人に関する論文だが、調べてみるといくつかの図書館で所蔵していることがわかり、さっそく借りてきた。論文集のなかの一篇だろうと思っていたのだが、B5版160ページほどの本だった。”Filipinos in Japan and Okinawa 1880s―1972” (Lydia N. Yu-Jose , Research Institute for the Languages and Cultures of Asia and Africa , Tokyo University of Foreign Studies , 2002)には、「日本におけるフィリピン人音楽家とボクサー」という章があって、わずかながらベビー・ゴステロのこともでてくる。私がもっとも興味があるフィリピン人音楽家について書いてある部分を読むと、あれあれ、日本のイタリア料理史と重なることがわかり、改めてきちんと書こうと思う。日本のスパゲティー史を調べて得た知識が、フィリピン人の行動とクロスするとは思わなかった。だから、調べることは楽しい。